葉隠の諸相 ―センター試験の『葉隠』理解は?―
嘉村 孝
今年のセンター試験に以下のような葉隠に関する問題が出ました。
「問3、次の文章は、中世から近世における武士の心のあり方についての説明である。文章中の a ・ b に入れる語句の組み合わせとして正しいものを、下の①~⑥のうちから選べ。
中世の武士たちは、戦いで勝つために強さを求め、見る者の心を動かすような武勇をその理想とした。仏教的世界観からこの世を a であるとみなしつつも、彼らは、自己の武勇が『名』として後世に語り継がれることを信じた。
戦いの絶えた近世には、代々受け継いだ家職において、主君への奉公を全うすることが武士たちの目的と考えられるようになった。 b で語られる『武士道と云うは、死ぬことと見つけたり』という言葉は、生への執着を離れて、奉公を一途に徹した見事な生涯を貫こうとする覚悟を表したものである。
①a,無常 b,『自然真営道』 ②a,無常 b,『葉隠』 ③a,無常 b,『翁問答』
④a,浄土 b,『自然真営道』 ⑤a,浄土 b,『葉隠』 ⑥a,浄土 b,『翁問答』 」
正解は、一応消去法で②ということになるでしょうが、この文全体が、本当のことをのべているのかについては?が付きます(私としては)。
話しの前段は一応そういうこと「も」言えるとして、後段は我が県にとっては大変“有難い”ものの、本当のことが記してあるかというと、大いに問題です。
まず、そもそも『葉隠』というもの自体に原本がないということ。従って、原本がない以上、このように断定してしまってよいのか。それに、武士道なるものをこんなふうに理解してよいかということもありますが、こうしたことの理解には、やはりバックグラウンドをしっかり見てみる必要があるのではないでしょうか。
私がいつも申し上げることですが、本来「武士道」というものは昔からの言葉ではなかったわけです(例えば、佐賀が生んだ大学者・久米邦武先生の『鎌倉時代史論』)。それが今言われるような「武士道」になってきたのには、国際関係が大きく関係している、特に私としては一六〇〇年代が大事だと思っています。この辺は、その昔文化勲章を受章された法制史の石井良助先生が、受賞の時のインタビューで、「私は一六〇〇年代をもっと勉強してみたい」とおっしゃっていたことが常に私の頭の隅っこにあるわけです。
それというのも一六〇〇年代はこの東アジアが激動していました。そして、その影響が日本にも強く及んだというわけです。特に、一五〇〇年代末に秀吉が起こした文禄慶長の役、これは、朝鮮半島で日本が明という国と対峙した。それによって、逆に日本に明文化が入り、人間もやって来た。例えば、赤穂浪士の一人武林唯七のお祖父さんは孟二官、つまり唯七さんは孟子の子孫です。そして一六四四年の明の滅亡というものが、逆にその後明を復活させようという「復明」の運動と共に日本に色々な影響を及ぼした。そして、最後の一六八三年に鄭成功の孫が台湾を失陥したことから、またまた色んな物が来た。
そして、簡単に言うと明という国は完全な儒教国家であって、そこから日本でも湯島の聖堂にみられるように、また佐賀の多久聖廟にもみられるように儒教文化というものがやって来た。このことがけじめをつける儒教の教えと武士の生き様、そして文治主義とが一致することになって、新しいいわゆる「武士道」なるものが生まれたと、簡単に言えばそういうことになるのではないかと思っています。
その立役者としては会津や水戸あるいは岡山の池田光政が典型だということになりますが、それに対して、「(上方風ではなく)昔がよかった!」と言っている、つまりはノスタルジーの塊みたいな人が山本定常朝さんなので、かつて相良亨東大名誉教授がおっしゃったとおり、葉隠というものは(これが本来の「武士道」)中世的な仏教をバックにしたものであり、近世的な「士道」(さむらい道。後に、これが「武士道」となる。)は儒教をバックグラウンドに持っていると、こういうことになるわけです。ただし葉隠が分かりにくいのは、そのような時代背景に加えて、石田一鼎という儒教的な要素を相当持っている人が常朝さんの先生なので余計内容が複雑になるわけです。ですから、この問題のような断定はできないのではないかと思っているわけです(正解は出せますが)。
ちなみに足のナンバー③⑥にある『翁問答』。これは中江藤樹の書いたもので、実際のところ中々深いものだと思っています。相良先生は山鹿素行を儒教的な士道の典型と言っておられますが、その事をむしろ先駆的に述べているのは中江藤樹かと思います。彼の発想法は「孝」を基本にしたと一般的に言われますけれど、その孝なるものは私共が考えるような孝ではなく、その孝から全てを導きだそうとする演繹的発想の元であり、であるがゆえに三十何歳かの時に朱子学から陽明学に転換したと言われています(彼は四一歳で死亡)。
いずれにしても、朱子学のような二元論から発したのでは、ややラフに言うと、思考が止まってしまいます。孝を基本に考えていく一元論の中江藤樹こそ演繹的発想の人であり、山下龍二先生は彼が非常に「ハイカラ」であるということを言ってらっしゃいますけれど、それも正に国際情勢の為せる技であり、特に葉隠や山鹿素行に先行する中江藤樹の時代(一六〇八年から一六四八年。山鹿素行は一六二二年から一六八五年。石田一鼎は一六二九年から一六九四年。ちなみに山本常朝は一六五九年から一七一九年)の方が、日本がより国際的であったがゆえに余計彼のような発想が生まれたのではないかと思っているわけです。
