2) 儒教武士道による「法治主義」否「通達主義」
即ち仁義礼智信という人倫五常の道などということを正面に据えての武士道、一方では「身分」を強調する武士道、新渡戸稲造の「武士道」などが色濃くその流れをくんでいます(岩波文庫にありますから読んでみて下さい。頭がコチコチになりますよ。しかし、一般には武士道というと、これのことだと思われていて、ながい間、『葉隠』も、それといわば「十把一からげ」にされてきたのです)。
そういう儒教的な武士道は「情」や「実」の中世武士道に対して、知性的とも言えますが、悪くいえば形式的です。そしてそのことが法的な意味を持った典型的な事例が、例の赤穂浪士の処分なのです。
赤穂浪士が敵討ちをしたときに、彼らをどう処断しようかということが問題になりました。幕府がいろいろな学者に聞いたところ、儒者荻生徂徠曰く、「これは私情としてはかわいそうだけれど、公的にみると明らかに違法なんだから責任とってもらいましょう」と。そしてそれが通った。違反したものは違反という、いわゆる「法治主義」。形式を重視する主義が出てきたというわけです。
徂徠には「明律国字解」など明の法律を解説した大著があります。
この明律の影響を大きく受け、1742年、鎌倉以来の御成敗式目やその流れをくむ分国法の世界から再び律令と同様の秘密法典『公事方御定書』を制定したのが8代将軍吉宗です。実は秘密ではなかったとか、「暴れん坊」だったとか言う学者やテレビは、彼の本質をとらえていません。
つまり、ここで日本の法は関東の慣習法である御成敗式目の流れから中国法に変りました。

明律国字解。明治初期に最も読まれる


『公事方御定書』。刑は一つという律令と同じ主義。
3) 水戸・会津型(徳川)と『葉隠』との国家観のちがい
少し戻りますが、こうして、この法治主義(通達主義)に資する武士道というのが儒教武士道でして、その典型は明の遺臣朱舜水がブレーンになって作られた水戸の武士道です。水戸の義公、あの水戸黄門ですが、彼は儒教をきわめて大事にしました。そして逆に、仏教系の特に淫祀邪教は厳しく取り締まりました。よく言えば合理性あるいは知性があったわけです。これこそが、多くの人が観念する秋霜烈日ともいうべき武士道でしょう。しかし、合理性や知性も極端になると非合理も生れます。どころか、むしろ形式が支配する恐ろしさもあります。このことをもう少し詳しく説明しましょう。
水戸黄門は、水戸学の祖であり、彼は18歳のとき、司馬遷の『史記』を読んで、特にその中の伯夷、叔斉の伝に心を打たれました。
これは、紀元前11世紀、中国の殷の紂王という人がメチャクチャな政治をして周の武王のために牧野の戦いで破れ、周王朝が成立したことに関係します。この伯夷・叔斉という兄弟は、例え紂王であろうと王様というものは絶対に悪いことなんかしない。悪いのはそんな王様にしてしまった家来、即ち「君側(くんそく)」なのだから、もし統治者たる主君に不始末があった場合には、官僚すなわち「君側の奸」が責任をとるべきなのだ、というのです。そして、王様をやっつけた周の飯など食べられないといって、首陽山、別名西山(せいざん。水戸黄門の別名・西山公はこれ)に籠もって、蕨を食べて餓死します。
まさに「King can do no wrong」の発想ですし、日本の昭和の歴史では、これによっていくつもの事件が起きました。

水戸黄門と朱舜水との交流を描く中国の本
一方、黄門とともに、同じ「君君たらずとも臣臣たらざるべからず」の論理によりながらも、会津の保科正之(徳川家光の異母弟)の場合は、ここにいう「君」を将軍とすることにより、黄門のような論理矛盾からは開放されますが、幕末には、大君、即ち将軍に最後まで殉ずることになり、もっとも手痛い目にあうことになります。

『古文孝経』君々たらずといえども臣々たらざるべからず

会津・松平家墓所。典型的な中国式。北京にある明の十三陵の小型版。

会津若松城(鶴ヶ城)
こうして主君に殉ずることこそ徳川武士道の貫徹であるとも言えるでしょうが、ただ、これら徳川武士道の論理の前提には、国民の自由、財産を、君主が当然に上から制限できるという専制的な国家観、そして「身分」差別があります。しかも、上記のとおり「たとえ君が君として不足でも、臣は臣としてふるまえ」という非合理に陥る危険を持っています。これが儒教的な武士道なのです。
一方、こうした国家観に対して『葉隠』は、中世的な一揆、あるいは君民協約的な国を理想とし、「主君との一味同心」を標榜します。その源流・鎌倉はより「平等」です。
この一揆や一味同心は、その元を訪ねれば、皆が盟約しあって一つの組識を作り、共同して事に当たるという考え方で、中世の松浦党などにある「一揆契諾」の観念に行きつきます。
つまりは、水戸、会津、『葉隠』の元を比べることは、正に国家観の違いを探ることにほかならず、極めて今日的な問題なのです。
そして江戸時代と明治時代とでは、上の「君」が将軍すなわち大君か(会津型)天皇か(水戸、明治型)という違いだけであり、以来、「悪をなさない」、「no wrong」の将軍や天皇が責任を負わず、官僚の責任や自己犠牲の精神に国家の運営が任されてきたのです。逆に中国では、先に述べたとおり、農民軍に追い詰められた明の崇禎帝は自身責任をとって、ある意味で「民主的に」自殺したわけです。
こうして最も国粋的とみられる水戸、会津の発想は、その本質が中国では捨てられた制度を輸入したものなのです。
ですからこのことにより、それまで日本にあったよいもの、即ち「実」や「身の丈」を大事にする発想などの内で、失われたものも極めて多かったことを反省する必要があります。特にこのようないわゆる大君体制は、先に述べた『伯夷・叙斉伝』のような主君の無謬性という、本来あり得ない「神話」に依拠している上、神様のような主君が国民を撫する「撫民思想」にもなってしまうことです(私があちことで書いています)。

明治維新に大きな影響を与えた浅見絅斎の『靖献遺言』。中身は中国の話。

会津藩校の本『日新館童子訓』
4) 対する「葉隠武士道」
さて、江戸中期の成立なので微妙な立場ながら、この徳川型武士道を「上方風の打ち上がりたる武道」と非難するのが葉隠武士道です。
先ず『葉隠』の成立について一言しましょう。鎌倉時代以来の九州の御家人の動きをおさらいすると、中世の肥前に支配権を持ったのは、鎌倉時代初期、今の横浜あたりからやってきて、太宰の少弍に補されたことにより武藤(武蔵の藤原氏)から少弐へと改姓した少弐一族でした。大友は小田原から、島津は厚木からです。いずれも関東武士(坂東武者)です。しかし、少弐一族は山口の大内一族との多年の抗争により疲弊し、西暦1559年に滅亡します。そして、龍造寺、更に鍋島家が台頭してきたのでした。
豊臣秀吉による1590年の全国統一を前にした九州平定にあたり、最後の勝利者になったのが鍋島直茂です。そしてその子勝茂、忠直、光茂、綱茂と続いていきます。

少弐政資が建てた佐賀市与賀神社楼門(国重文)
この忠直の死に際しての家来の殉死に心を痛めたと言われる佐賀藩主鍋島光茂は、1661年、追腹停止令即ち殉死禁止令を出します。会津の保科正之など、儒教主義の殿様も、あちこちで同時期に出しました。単に「心を痛めた」だけではなく、身分の違う家来が追い腹して、特に同じ墓に入るというそれまでの習慣は許されない、という身分差別もあります。
そのため、幼いころから光茂の側に仕え、情としては、殉死したくて仕方がなかったのに殉死できなくなってしまった光茂の家来・山本常朝は、僧になって佐賀市北郊に隠棲。そこに訪ねてきた若侍、田代陣基に対して話しをした内容を陣基がまとめ、それに多くの逸話を加えて、享保元年(1716年)に脱稿したのが『葉隠』ということになります。

山本常朝の先生・湛然を鍋島菩提寺・高伝寺に推挙した月舟の書
5) 切腹の意味づけ
ここにおいて、切腹の意味づけも違っています。鎌倉末の村上義光の吉野における切腹は、敵の目を欺くための戦術的切腹でした。その後、戦国時代には、戦争で負けたからといってすぐに腹を切ることは当然には予定されていません。そんなことでは次の戦争が戦えないのです。また、時にはわざと負けて敵を欺くこともあります。これらの考え方が「実」です。そして、主君と一緒に戦い、優しく、時には自分を許してくれた殿様が死ぬときに、『葉隠』の言う「情に感じた」家来は「追い腹」を切るのです。
ここにおいて衆道(ホモセクシュアル)としての切腹もあったわけです。『葉隠』には衆道の元祖の星野了哲という人も出てきます。ですから「忍ぶ恋」を男女の恋愛としている三島由紀夫の『葉隠入門』などという本は大間違い(だらけ)なのです。
ですから、無理矢理切腹させられるわけではありません。それだけの根拠、「実」があるわけです。
こういうことを理想としていた常朝からすれば、殉死禁止令などもっての外ということになるのです。
もちろんこういう切腹はどうみても、儒教的な「官僚の責任」をとっての切腹、というのとは趣旨がちがいます。その意味からも、切腹を責任の取り方としてとらえ、その官僚の責任に依存してきた現代は、徳川武士道の延長の時代であり、それならそれなりに、キチンと責任が取られなければならないのに、それが取られていないところに現代日本の様々の問題の根本の1つがあるのです
6) 『葉隠』の源流・基底としての仏教
山本常朝の思想の源流に位置する人の中には多くの仏教者がいます。例えば盤珪という坊さんが出てきます(この人の源流の1人も、明の道者禅師です)。この盤珪は「不生禅」という禅を説きました。不生禅というのは、「不生」、生まれないというわけです。生まれない禅、つまり生まれて死ぬということになると、そこに「時間」があることになってしまいます。でもそうじゃないんだと。例えば、曹洞宗の道元禅師の著書「正法眼蔵」の中にある「現成公案」という部分を読むと、薪が燃えて灰になるのではない。薪は薪の位として存在する。灰は灰の位として存在するのだと。いわゆる一期一会ですね。目の前にある現在、これが一番大事だという。これが禅的な考え方です。
『葉隠』の中で最も有名な言葉は「武士道というは死ぬこととみつけたり」ですが、この「死ぬこと」も、単なる物理的な死ではない禅的な無我の境地を言っている面が相当にあるでしょう。それなのにこれを物理的死とのみ考えたのが戦争中の風潮でした(常朝さんの「説明不足」にも責任は大いにあります)。

常朝らの著作、昭和になってから印刷されたもの

『二・二六事件』青年将校らの遺書などをまとめた基本資料。この真の意味を知るにも上記の歴史認識は必須
3.『葉隠』を現代に生かすもの
1)『葉隠』の現状への不満
で、そうなってくると『葉隠』は、政治体制としての徳川幕府中期以降の現状に対して、不満があるわけです。明の滅亡によって入ってきたところの、いわゆる官僚国家、それに対してよくないと。昔の戦国時代のように殿様と家来とが「実や情」で結ばれる社会、その元をたずねれば鎌倉時代のような平等な社会こそが理想であると、そういう話しがあちこちに出てきます。佐賀藩の藩祖鍋島直茂や初代勝茂などもそうした人物として描かれます。そのあたりに、また、それを言うために引用されている中世、戦国の武田信玄や徳川家康らの事例に、『葉隠』から政治論を汲み取る切っ掛けがあるだろうと思うわけです。
もちろん、人生の書として面白いことも当然ですが。
その意味で、よりお勧めは『葉隠』よりやや遅れる湯浅常山の『常山紀談』かもしれません。

『常山紀談』、『葉隠』に遅れるが戦国時代の話題は豊富。現代人が真に読むべき本
2) コミュニティ・社・惣
そこで、『葉隠』の政治論を考えるために、英米法系社会のコミュニティや、東洋の「社」と日本の中世という事を考えてみたいと思うのです。日本の中世は、荘園制度というものがそれ以前にもちろん確立されています。ただし、それが崩壊していくという過程の中で、自然に民主的自治組織ができました。
例えば「惣」というもの。あるいは「寄り合い」というようなものがあって、早く言えば田んぼの水をどうするとかいうようなことを自分らで決めなければいけないわけで、そのような自治的組織ができていきました。また、英米法系の国ではコミュニティというものがよく言われますし、東洋には上記の社というものがあった。「社長」などという言葉もそこから出ています。つまり自然発生的に社会、村とか町とかが生まれてくるわけですね。これも「実」の一例でしょう
例えばアメリカというのは、その国全体がよい意味での「カルト」いわゆる小さな宗教集団からできているとよくいわれます。ヨーロッパからメイフラワー号でやってきて、1つ州をつくりましたと。次の船でやってきた者は別のところに州をつくったとか。中にはモルモン教徒がユタ州という1つの州をつくるとか。そういうふうなことがあった。そこでの民主的自治組織ができるんですね。
で、日本も中世においてはそれがあったわけです。自分で自主的に作ったのだから、これこそ人工的ではない本当のナショナリズムの発現といってよい。ところがそれは明の滅亡によって流入した儒教的な管理国家ができることによって破壊される。あるいは、その傾向は明治維新以後ますます強くなる。
また上記のカルトの面からみると、宗教は江戸時代に寺請制度というようなものができて、いわゆる葬式仏教になってしまった。
一方、水戸黄門が行った淫祀邪教を取締まるということも大事ですが、現代日本はそういうことでもないわけです。
こういうことからいきますと、この英米法でいえばコミュニティ、東洋でいえば社、日本でいえば中世の惣的な社会というものを改めて見直す必要があるかもしれない。昭和の歴史で有名な権藤成卿『自治民範』なども、そのような視点から読みたいものです。
江戸幕府以降の官僚国家、法治国家は、最近に至るまで大君とか、天皇とかいう基軸なり、バックボーンを持って、優秀かつ責任を持った官僚によって今日の日本をつくったのだけれど、今日、その基軸がくずれ、官僚や、もちろん政治家の責任感の喪失を指摘せざるを得ない実情をみると、今度は自分自身が、やっぱり国民自身が責任感を持って政治を考えなきゃいけない。
ちなみに先に述べた一揆契諾状と1620年のメイフラワー盟約とは、その内容がピッタリ一致と言ってよいくらい似ています。
つまり、中世日本の武士の理念こそが「民主的自治組織」です。つまり武士道を考えることは民主主義につながるのです。ですから、憲法や国の行政も、その見地から検証しなければなりません。
徳川武士道の大君体制による撫民の社会ではなくて、我が国が過去400 年の間に作ってきた制度というものの中に、『葉隠』が理想とする中世武士の「よいところ」を入れていく、そして調和していくということがよいのではないかと。それが『葉隠』の生かし方ではなかろうかと。そんな気がするわけです。

ミャンマー・サガインの日本軍鎮魂の碑。第二次大戦の反省は、以上の歴史を踏まえ、いくらしても足りることはない。

ミャンマー・エーヤワディ川(イラワジ川)とジュピー山脈に沈む夕日。インパール作戦はこのかなたで。
4 最後に東京市政調査会が発行した『公民教育研究』について
この本は、大正デモクラシーのあと、普通選挙法、陪審法の施行に合わせて昭和3年に東京市政調査会(日比谷公会堂)から発行されました。民主制を施行する以上、国民の能力のカサ上げが大切であり、『続日本紀』や『本佐録』や『憲法義解』などにあるような撫民の対象である国民ではなく、自分自身を教育して民主主義の担い手にしようという企てが、あの旧憲法の時代にもあったのです。
しかも、その内容の多くが、日本の歴史を見直すところにあった点が大切です。
陪審などを始める以上、法というものを形式的な「法律」としてだけとらえるのではない「法の支配」の観点が必要であることが述べられています。例えば、御成敗式目など中世の武家法は、人間が作った法よりも高次の自然法(北条泰時の「道理」)を具体化したものといわれています。
中江兆民は、「一年有半」の中で、「日本に哲学なし。ただ仏教僧中創意を発して開山作仏の功を遂げたるものなきにあらざるもこれ遂に宗教家範囲のことにて純然たる哲学にあらず。速やかに教育の根本を改革して死学者よりも活人民を打出するに務むるを要する」と述べました。
『葉隠』以前約百年間のオランダをみると、グロチウス、デカルト、スピノザ、ライプニッツらが行き交い、彼らは哲学を究め、それからスピノザの『国家論』にみられるような政治の枠組みをみちびき出しました。我が国でも、この時代からやや下った哲学者として、富永仲基、三浦梅園、安藤昌益らを挙げることがありますが、彼らはヨーロッパの思想家のように近代国家の枠組みをつくるところまでは到底行きませんでした。江戸時代を通じて、我が国との唯一の西欧の貿易国がオランダであったのに、こうした国家の根本をかたちづくる彼の地の思想は入ってこなかったのです。そこに日本の悲劇があるのかもしれません。
しかし、我が国でも、兆民が述べるように仏教者は相当「よいところ」まで行っていたのであって、中世に御成敗式目という平等な、しかも関東の慣習を重視した「日本の」法を作った北条泰時のような仏教と深くかかわった人物の心の底には一種の哲学の存在を汲み取り得ないではありません。『葉隠』も正にその流れの末端にある本なのであり、これからの日本人は、そのことつまりは鎌倉・中世の正に日本的な武士の生き方に賭け、そこに自信とアイデンティティとを持ち、国家の基軸にすべきだと思っています。
なお機会があれば、日弁連機関誌「自由と正義」1999年1月号の私の論説、そして、近著『法律から読み解いた武士道と、憲法』(元就出版刊)をご覧下さい。

東京市政調査会(日比谷公会堂)・陪審や普通選挙という民主政治を行うために、その担い手である国民が訓練をするための施設です。

『公民教育研究』民主主義の確立には国民の意識のカサ上げを必要とするも、日本の歴史をつぶさに見ればそれは可能であることを説く。