葉隠の諸相
嘉村孝
前回は山本常朝さんが最も大切にした佐賀藩内の三カ所のうちの佐賀市嘉瀬町・徳善院の話から始まって、佐賀県を含む北部九州には仁明天皇が中国から薬を輸入される話し以来、京都の仁和寺の領地が多いということを書きました。
そして、その荘園の一つである藤津荘(今の鹿島市)から覚鑁上人という人が出て、仁和寺から高野山に登り、そこを出て根来寺を造り、そこから奈良県の長谷寺や京都府の智積院ができて、それが東京の護国寺や成田山、川崎大師などになり、つまりこの東京や関東地方に非常に多い新義真言宗、つまり真言宗豊山派や真言宗智山派の寺ができたという話に発展していきました。
それで、この話に結末をつけるために、こういういわば古代の荘園制度と遣唐使や遣隋使の話、さらには世界の交通のことを述べてみたいと思います。
遣隋使や遣唐使の時代は正に公的貿易であって、入港してくるお使いも人違いは許されず確実性もそれなりにはっきりしていたと思いますが、その前提の身分証明にあたるものとしては公憑というものがあります。これは日本の公式令から一応推定できると言われていますが、なかなか本物がなくて、ただ滋賀県園城寺、つまり三井寺には智証大師円珍が留唐中、官憲から交付されたところがあって、国宝に指定されているということです。
その後、公的貿易が没落していき、ついには日宋貿易の展開が見られるということになりますが(森克己『日宋貿易の研究』)、そのような大きな流れの中で、有明海沿岸のみならず、長崎、熊本、鹿児島、福岡にまで仁和寺の領地が広がっていきました。
前掲書の一四四ページ以下を見てみますと、極めて長い期間において、太宰府の帥や権帥になった人々の名前が見えますが、その間の特に長承二年(一一三三年)はよく引かれる話でして、当時の太宰の帥は藤原仲実ですが、実際のところ唐はすでに滅び、その後の呉越国も滅び、宋という自由貿易の国が出現して、この宋の船でやってきた宋人・周新が肥前の神崎荘に来たと。その時太宰府は例によってこれを臨検し、かつ公的貿易を完了しようとしたのですが、備前守平忠盛が自ら院庁下文を作って院宣と称し、神崎御荘において、太宰府の官がこの権限を侵害すべきではないと抗議し、太宰府の優先的な買い受け権を否定したということがありました。
そしてそんな国際関係の中で、中国が後の明という国であった時代の「勘合」は、特に厳密で、コンプライアンスの観点から見ると、円珍ら公憑(パスポート)のシステムは、会社に例えると、書類に判子をたくさん連ねる決裁式。勘合の方は先年まで会社法上にあった共同代表(判子が二つ以上あって初めて会社の意思表示となる)みたいなものかな、と素人ながらボワンとした印象を持ちます。
要はそういう出入国や関税制度は官貿易の大宰府だけでなく私人も持つようになり、仁和寺や東寺といった寺院はもとより、それにつながる武士が強くなり、特に平清盛が大宰の大弐に任じられた後は九州における源氏の勢力を駆逐し、肥前国杵島郡、肥後国八代郡等々を子孫に賜るということが起きてきました(敦賀や薩摩も大事です)。
そして、例えば佐賀市蓮池町には小松という小松の内大臣平重盛の故地もあるというわけです。京都の三十三間堂もそうしてできたことは先にも記しました。とにかくわが故郷は、大宰府という固定した場所を離れた自由貿易という世界史的な大きな流れの中にあったし、その中での荘園でもあったということかと思います。
ちなみに、世界を見ると、マルコポーロは一体ヨーロッパからどうやって確実にアジア圏にやって来たかというと、站赤(ジャムチ)という元の駅伝制度が発達しており、そこに利用されるのが牌子(パイザ:通行証)というもので、パイザは漢語のパイズ、麻雀のパイに子供というもので、皇帝から付与されたタブレットであると言われます。これは、駅や馬の使用や兵士を統率下に置く許可証としても使用されたということです。そのような交通における法的システムというものはやはり相当昔からあったのだろうと思います。もちろん、その裏付けとしてのパクス・モンゴリカ(モンゴル帝国による平和)が前提です。
最近、復刻版が出された今上陛下の『テムズと共に』を拝読しておりますと、まさにテムズ川の流通にも関係するように思われます。
要は、アジアは一つどころか、世界はとっくの昔にいろんな「システム」という目に見えないものにおいて一つであったのだなということが伺われる次第です。
いずれにしても、再説しますが、こうして厳密な官貿易の衰退とともにおきた自由貿易でも、荘園における入国管理や税関の機能を営むものがそれ相当にできていて、それが寺院や武士の発展を支えたのだろうと思います。
