葉隠の諸相
―「恋闕(れんけつ)」とアジア・ヨーロッパ―
嘉村孝
武士道も地域ごとのバックグラウンドや、国際関係の変化を踏えて考えることが大切であると思っているものですから、昭和史上有名な言葉である「恋闕(れんけつ)」とアジア・ヨーロッパを考えてみました。もちろん佐賀・吉野ヶ里遺跡のことも。
この恋闕という言葉、例えば二・二六事件で逮捕され、証拠不十分で釈放された青年将校・黒崎貞明中尉後中佐が書かれた本に『恋闕』があります。その本の帯には、「日本を愛し、昭和天皇に恋した昭和青年の歌」という紹介がなされています。天皇に対する一般的な「忠」以上の「恋」焦がれる気持ちを表しているのです。ですから、正に三島由紀夫などもこのような観点から二・二六事件をとらえたりしたというわけです。「殿の馬前に死することを無上の喜びとする」というわけです(正に文学的と言ってもよいかもしれませんね)。
そこで、この恋の対称としての「闕」、それは一般的には宮殿の門をいうと言われていますが、極めて大きな意味があるものなので、もう少し広い視点からそれを見ようよというわけです。
まず、貝塚茂樹先生の『中国の古代国家』を見ると、先生は、中国の最も古い本である「三礼」の一つ『周礼』そして、『詩経』から説き起こされます。即ち、「西周都市創設の儀礼」というところで、古公が都市造りのために、亀甲で占った上で都城の場所を定め、土を掘って、かつ城門を作ったということが書いてあるわけですが、
「その城壁は、高さ二尺、長さ一丈の板五枚を積んでその間に土をつめて固めたのが堵である(板築工法)。三堵つまり幅三丈を一雉とする『左伝』『周礼』の古文説と、五塔つまり幅五丈を一雉とする『公羊伝』の今文説とが対立している。今ここでどちらをとるかは宿題として後に再びふれることとしたい。ともかく、百塔興つというように、板築の高さ一丈の城壁が完成したことを歌っているのである。」と。
そして、「…城壁が出来上ると、次に城門である皋門と、宮門である応門とを建設する。…この城門、宮門、大社の建設が第六段の仕事とされている。周の応門と大社は密接な関係があるように、周の応門に当る魯の雉門もまた社(先祖を祀るところ)と切っても切れない関係がある。このことはさらに後にふれることにして、ここで問題として取り上げたいのは、雉門は、両観つまり両闕の台を左右にもち、茅闕門とも称されていることである。このような特殊な門の形式は、実は宮垣の築造にともなって生まれてくる門の原始的性格を表すものである。」と。
こうして、城壁や門、つまり城壁の欠けたところである闕ができるのですが、更に貝塚先生は、フランスの有名な歴史学者というか文化人類学者、むしろ法学者とも言えるフュステル・ド・クーランジュの『古代都市』を引いて、「(ローマの都市を造った)ロムルスは都会の境界を制するため、白い牡牛と牝牛に銅製の犂を引かせ、自らその柄を握り、祈祷を唱えながら進んだ。犂の歯が土塊を掘り起こして外に飛びちるとそれを境界の内に投げ込んだ。神聖な土地は一塊も境界外、つまり他国側に落としてはならないからであった。この宗教により制定された境界線は不可侵であり、外国人はもとより、市民も越える権利がなく、この線を跳び越えることは不敬なしわざとされていた。だが都市に出入りすることができるように、門を作る必要があった。ロムルスは門の予定地点では、いちいち犂を抱き上げてこの神聖な線を中断させたのだそうである。
中国古代の門を闕と呼ぶのは、ロムルスのローマ市創建の儀典と同じように、この神聖な境界線が中断され欠けていることを意味しているのだとみるとぴったりするのではなかろうか。」と言われます。
この古公とロムルスの壁作りは全く同じです。ただ、都市の場所の選定については、古公では亀ト、ロムルスは鳥占の違いがあるだけです。そうすると、闕というものは正にユーラシア大陸全体に全く同じような文化として存在するものではなかろうかと思われるのです。
ちなみにクーランジュの『古代都市』を最初に翻訳したのは、法学者の中川善之助先生であり、私が深くおつき合いした三井哲夫判事(後筑波大学教授)もその信奉者でした。クーランジュの厳密な文献の吟味は、法律に対するのと同じです。
そして、その闕はそのような都城の出入口で、そこには天あるいは祖先を祀る塚、境界神が祀られます。これが中国で言えば祖霊殿と社稷壇でしょう。中国・北京の故宮は、正に明の歴代皇帝が儒教主義を厳格に具体化したところと言われ、その午門が闕。午門の南に祖霊殿と社稷壇があります。もちろん韓国にもあります。そして、韓国では境界標チャンスン(将軍標つまり門)とソッテ(鳥)というものにつながっていきます。チャンスンとソッテはいわばセットであって、韓国ではその二つは一緒。実は吉野ケ里遺跡にも復元されています。また、皆様が闕をインターネットあたりの画像で見られると、大きな門柱が二つあって、間に鳥(ソッテ)が飛んでいるというものがたくさん見られるでしょう。つまり闕もチャンスンも同じです。
私は、もう一つ、門の前に祭祀の場を、ということは、モンゴルのオボともつながると思います(貝塚先生も)。このオボ、「土」という字の元ともいわれて、モンゴルやチベットのあちこちにあり、テレビでも見かけることがありますし、「城」という字の偏でして(『説文解字』)韓国では「防邪塔」がそっくりの形をしています。
以上の話を前提に、日本の神社の中の特に伊勢神宮を考えてみますと、私のお友達の清瀬新次郎先生(衆議院議長清瀬一郎さんのご子息)が、伊勢の内宮は祖霊殿、外宮は社稷壇であると言われていたことが思い出されます。社稷は、例えば二・二六の青年将校が歌った「青年日本の歌」にもあるもので、国家を顕すとも言われますが土地の神、穀物の神です。
要は日本の神様の文化は、中国どころかユーラシア大陸西端までつながっている大きな人類の文化の一部なのではないかということなのです。
私がこのように洋の東西がつながっていると考えるのは、あらゆることに言えるのであって、例えば佐賀のカササギが韓国だけではなくてロシアにもヨーロッパにもイギリスにまでいるというわけで、はるか昔から最も単純な天文航法でも、そのような文化の東西への移動は簡単であったことから、そんなことがあるのではないかと思っています。
