葉隠の諸相
―『竹原古墳』から考える日本の武士の「元の姿」―
嘉村孝
葉隠に関係深い話しから始めますと、佐賀県鳥栖市に田代太田古墳があります。これは古墳時代後期六世紀後半に作られたと言われ、横穴式石室からなるもので、私も数十年前にその内部にある壁画を拝見する機会がありました。一番奥には三角形がたくさん並び、下に丸い模様が色とりどりに描かれている装飾古墳です。
この三角や丸が一体何なのかについては色々な説があるようですが、茨城県ひたちなか市の虎塚古墳やいわき市の中田一号墓などにも同様なものがあり、同じく虎塚古墳にもある丸については中国の吉林省集安市に「環文塚」があって、そこにも丸い模様があります。つまりこれらの文様文化は高句麗からきているのではないかという西谷正先生の説(大塚初重編『東アジアの装飾古墳を語る』)が相当有力のようです。福岡県うきは市の珍敷塚(めずらしづか)のヒキガエルの絵も高句麗や中国(道教の本『淮南子』)につながります。
このようなスタイルの装飾古墳は熊本県に最も多く、また上記のとおり日本の東・仙台あたりにまであります。古墳時代における「海の交流」があったということが間違いないことでしょう(『装飾古墳と海の交流・虎塚古墳・十五郎穴横穴墓碑』稲田健一)。
そして、以上とほぼ同じかその次の段階に生れたのが福岡県宮若市にある竹原古墳です。現物は博多駅を出て小倉駅へ向かう新幹線のトンネルを出てすぐ左側のところにあります。遠賀川の上流であるところが一つの「ミソ」かと思います。
その古墳の絵はより具像化し、大きな団扇のような、翳(さしば)が見られ、真ん中には馬が、そしてその上には馬のようでむしろ龍のようなものが描かれており、馬を引く人物は正に胡服を着て、角髪・美豆良(みずら)を結っています。更に一番下には船や波と思われるものがあります。
これら画像の解釈についてもいろいろな説が行なわれており、金関丈夫(かなせきたけお)先生の話によると真ん中の絵は、やはり馬であり、一方、その上の馬のような形をしたものは龍であって、龍の精を馬に植え付けて立派な馬を得るという龍媒信仰ではないか、とされます(『発掘から推理する』)。
そもそも馬とペガサス、龍は元は同じというのが私の経験であり、西安郊外の霍去病(かくきょへい・前漢時代の英雄)の墓にあるペガサス、大英博物館にある馬(=龍)、全部つながるように思います。竹原古墳の龍のしっぽが巻いている姿は、まるでモンゴルの岩壁画の馬の絵とそっくりです(『モンゴル歴史紀行』松川節一六頁)。つまり、この文化も、ユーラシア大陸全体にまたがっています。さらに、その竹原古墳の入口には北に玄武、南に朱雀と思われるものの絵があり、奥が青竜だということになると、手前に四神の一つ白虎があったのかもしれません。
いずれにしても、その人物の着衣は、上記のとおり「胡服」で、高句麗との強い共通性を伺わせます。
そして、このような装飾古墳に描かれた北方系の文化は、日本の中で実際のところ相当に広がっていたと思われます。というのは、色のついた絵だけではなくて、線刻も大事であり、更に、埴輪の武人像が正に竹原古墳と同じ足結をしていて、角髪を結っていることにも注目です。竹原古墳の人物の耳のところが角髪と解釈すべきなのは、福島県双葉町の清戸迫横穴(きよとさくおうけつ)の人物像との対称です。また、このような装飾古墳は日本の真ん中、大阪・京都には少ないと言われますが、むしろ大阪・柏原市の高井田横穴群を見ると線刻で全く同じ。角髪、足結、そして竹原と同じ冠。冠については、埴輪の武人との共通性が強く見られますが、ある韓国の友人がローマの兵士との共通性を言っていたことにも注目です(特に新羅とユーラシアは強くつながる[古代オリエント博物館の特別展あり])。
清戸迫横穴はこうした装飾古墳のとりあえずの北限のようですが上記のとおり角髪。この角髪について、国際的に見ると、北朝鮮の水山里(すいざんり)壁画古墳の「曲芸をする人物」の図が正に角髪(ユダヤ文化との関係を強調する人も。要は、ユーラシアの一文化)。また高句麗には相撲とこれまたそっくりな図があります。
日本と仲良しだったのは百済だという話がポピュラーですが、実際のところ、高句麗から派生したのが百済でもあります。つまり、このようなことをしっかりと把握し考えるには、朝鮮半島の歴史を考えなければなりません。新羅の圧迫が強くなると、高句麗と日本との関係が深まり、例えば、関東地方には高麗神社があるということもあります(もちろん後に新羅とも仲良くなります。中国の北、南まで含めた国際的視野が必要です)。
こうして「竹原型」の人物が日本中に居たという事になると、私は、素人の全くのロマン(?)ではあるものの、これが「本来の(古い時代の)日本人」、特に武士ではないかとも思うのです。その後中国南方の文化が入ってきて、着物を着たりする今の日本人ができ上った、と考えるのです。
このあたりのことは、佐賀大学から平成二年に出た「アジアの中の日本-その文化と社会に関する統合的研究-」に杉本妙子先生が「日本語の受けた影響」という題で日本語の起源について、北方文化と後の中国文化との融合という視点から書かれているところでもあります。
今、テレビを賑わせている「鎌倉殿の十三人」を観ていて、その鳥帽子からも竹原古墳の人物像と武士との関係が連想されるのは、これまた素人のロマンではありますが、こうした装飾古墳が、ほんのここ数十年の間に発見されたことを思うと、まだまだ議論の余地がありそうな気がします。
