葉隠の諸相「お葬式と葉隠」 嘉 村 孝
先日、東京新宿区の矢来町を歩いていましたら、久しぶりに林家の墓地の前に出ました。
公開されるのは年に一回なので塀の外から覗いてみると、沢山の儒式の墓標が建っており、その中の三か所ほどは、他と異なって、今の我々の墓とそっくりの形をしておりました。
その後、友人の國學院大学の教授から当該墓地の研究資料を送っていただき、高伝寺に一基ある儒葬の墓や佐賀市大和町の春日の墓所のことを思い出しました。
私が葉隠で感動を覚える一つは、鍋島直茂の墓地の話です。そのお話自体は、「元茂公年譜」にある話ですが、戦国武将である直茂の考えがよく分かって興味がもたれます。
まず、一般に、直茂たち戦国武将の時代までは火葬が主流であったようです。続日本紀によると、日本で初めて火葬されたのは仏僧道昭であり、平安時代の七〇〇年のことでした。以後、基本的に
は火葬による埋葬が続けられてきました。
しかして、江戸時代の初めころから、儒葬が一部に行われるようになってきました。
仏葬としての火葬と儒葬との大きな違いは、火葬の場合は遺体を焼くわけですが、儒葬の場合は焼
かずにそのまま土葬にするという点にあります。
この儒葬を始めた有名な人としては、土佐の野中兼山が挙げられます。彼は、お母さんのお墓を極
めて立派に作ったことから幕府のお咎めを受けました(これに関係する大原富枝さんの『婉という女』という小説があります)。
このように、遺体をそのまま土葬にしたというのはどういうことかと言いますと、儒教においては、
「孝」というものを非常に大事にします。「身体髪膚之れを父母に受く。敢えて毀傷せざるは孝の始めなり」は孝経の最も有名な言葉の一つですが、このように父母から受けた体を火で毀傷しないということが最も重要なことということになりますと、自分のお父さんやお母さんの遺体を毀傷するということは、父母をしてこれまたその祖先に対する親不孝を強いることになり、遂には、自身親不孝の典型ということになってしまいます。ですからお父さんやお母さんの体をそのまま土に帰すと言うのが最も大事なことになるわけで、これが儒葬の発想であり、野中兼山のお母さんの墓は帰全山にあります。つまり、遺体を完全にして帰した、というわけです(兼山の仲間で土佐で勉強した山崎闇斎による命名)。彼は会津の保科正之と親交をもった結果、正之の墓も儒教の影響を極めて強く受け、一方、吉川惟足の神道と習合して神儒一致の巨大な神葬の墓となります。これは戊辰戦争の松平容保までもそうであり、現在会津若松市の松平家墓所などとして祀られています。
そして、この正之と関係深い水戸黄門の場合にも同じく儒葬が行われましたが、自身は別として、
一般庶民には厚葬でなく薄葬を勧めたため、水戸市内に残る常盤共同墓地など簡易なものになりました。
そのようなわけで、一六〇〇年代の儒教の新たな移入以来、儒葬あるいはそれと同じといってよい神葬が特に為政者の間で行われるようになってきたと言えるでしょう。
なお、いわゆる神道による葬式が一般に許されるのは、明治五年以降といわれています。
以上の土佐や会津、水戸などはいずれも幕末の争闘に関わる藩で、しかも同じスタイルの墓という
のが面白いわけですが、これに対して前記の幕府の林家の墓地は、神道的でない最も典型的な儒葬の墓地といえるのかもしれません。しかも、最も古い形を残したと言われる四基の墓は先に述べたように現在の私どものお墓に非常に似ており、この墓や水戸の常盤共同墓地のスタイルが明治維新以降の通常の日本人の墓のモデルになったのではないかと私には思われてきます。
一方佐賀の場合には、最も純粋に儒教が残っているのは多久のように思います。多久聖廟は極め
て有名ですが、そこにおける釈菜は、いまや東京の湯島の聖堂や、むしろ大陸にさえ残っていない純粋な明朝型のスタイルともいえるでしょう。
このような様々なタイプの葬式があることから、それらをめぐる一種の軋轢は、葉隠が対象とする一六〇〇年代のあちこちにあったわけで、山本常朝の時代、主君綱茂は儒葬による葬式を志向したのに対し、常朝やそれに戒を授けた絶学了為らはいわば激しく抵抗し、高伝寺における仏葬を主張したことは既に記しました。
しかしそのような一種の形式をもって様々に争うということは、むしろ戦国武将には考えられない
ことだったのではないでしょうか。
私が冒頭に書いた鍋島直茂は、自分の墓は「北山方面からの攻撃を考えると、城の北側に小さいも
のを作ればよい。そうすれば北の敵が攻めてきた時にも、まさか殿様の墓が蹴飛ばされては、というので皆頑張るだろうから」と言ったといわれ、現在の宋智寺に自らの遺骸を葬ることにしました。
ここには戦前、鍋島直茂の銅像があり、銅像園と呼ばれていたようですが、鍋島直茂の本来
の趣旨から言うならば、そういったモニュメントを作ったりすることはむしろ余計なことということになったことでしょう。巨大なモニュメントや墓を建てるという水戸、会津型は、直茂やその先祖である清久ら、「実」の発想を重視する戦国武将には考えられなかったことではないと思うのです。
このようなことを考えてくると、城のスタイルと同様に、墓についても政治との様々な関わりが見
て取れるかと思います。
