葉隠の諸相 ~キリスト教と佐賀~ 嘉村孝
我が国にポルトガル・スペインからのキリスト教の伝播があったことについては、当然世界的な流れを見ておく必要があるでしょう。即ち、一五二九年にポストガル、スペインの間で締結されたサラゴサ条約の境界ラインがちょうど日本の上を通っていたということが大きな意味を持っているのではないかと思います。そして、一五四九年、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸して、キリスト教を伝えましたが、彼はイエズス会の一員であり、要は、鉄砲と同様、ポルトガルという西からの使者として来日しました。以後ポルトガルの布教は広まり、それに遅れて東から、即ちメキシコとつながるフィリピンから、ドミニコ会、フランシスコ会などの布教が行なわれるようになってきました。
こうしたことは幸田成友の「日歐通交史」などに詳しく載っていますが、最近は、それを軽々と超えると評される業績も著されており、しっかりした学者の先生方には正に脱帽です。
さて、一五九六年のサン=フェリペ号事件のあと、豊臣秀吉による二十六聖人の殉教等の事件があったものの、一五九八年に秀吉が亡くなると、徳川家康は積極的な対外政策を取り、その一環として特にスペインとの強いつながりができてきました。
そんな中で、戦国時代、肥前の西・藤津、彼杵は、高来郡とともに有馬氏の領するところでした。有馬氏はキリシタン大名として名高く、晴純の息子で大村純前の養子となった大村純忠もキリスト教を信じ、これを圧迫する龍造寺隆信、大村・有馬、その敵深堀という三者の勢力があのあたりで伯仲し、時代が下れば葉隠の「長崎喧嘩」にまで行き着くことは以前も記したところです。
そのような枠組みの中で、キリスト教への圧迫を逃れて、嬉野市不動山にキリスト教の会堂が建てられたのは、慶長十二年(一六〇七年)ころのことでした。
そして、今の佐賀市内にも慶長十一年(一六〇六年)から南蛮寺があったことは当時の地図にも出ています。これは、スペイン系の修道会・ドミニコ会から鍋島勝茂に願いが出されて、これも葉隠の重要人物・学校御方元佶の尽力により認められたようです。引続き、慶長十二年(一六〇七年)には鹿島の浜に教会と修道院ができました。この背景には、直茂において、貿易上の見地からキリスト教に好意を寄せ、東方巡察師ヴァリニヤーノから洗礼を受けたことが関係しているともいわれます。元々、秀吉が島津を征伐するため九州に来たとき、イエズス会から長崎を取り上げて公領にした際、鍋島直茂を初代の代官にし、直茂自体、海外との関係も強かった上に、その後生糸貿易等に鍋島勝茂も相当に食い込んで行きましたから、鍋島藩がこうした世界の動きとご縁を持ったというのも大いにうなずけるわけです。
しかし、一六一二年の岡本大八事件などをきっかけとすると思われる徳川家康による第一回禁教令、更に一六一三年に、より厳しい禁教令が出されて、この辺りは最も激しいキリスト教弾圧が行なわれました。
ですから現在佐賀にキリスト教関係のものが強く残っているかというと、特に不動山のいわば弾圧跡地は残っていますが、具体的なものは極めて少なく、佐賀の高伝寺で以前見た織部燈籠などが珍しいものです。四〇年近く昔、高伝寺に伺った折にはこの燈籠は元々鍋島直茂の墓前にあったとの話しもあって、上記のとおり直茂とキリスト教との関係も思われるとのお話しでした。いずれにせよ、弾圧が激しかった島原半島などを見ると、あれだけキリスト教が広まっていながら現在何もない(ただし、キリシタン墓などは出てきます)というのはむしろ佐賀にも相当なものが逆にあったと言えるのかもしれません。
なお、上記のサラゴサ条約の見地から目を転じて東に移せば、月ノ浦の整備、貞山運河の建設、そして支倉常長を日本の東方からスペインに送った伊達政宗。それ以前、一四九二年のコロンブスのアメリカ発見のわずか数十年後である一五六五年には既に太平洋航路が開かれ、日本人も相当数メキシコに行ったという話もありました。佐賀や、その武将も、しっかりこうしたことに「からんで」いたことは、把握しておくべきことと思います。
