葉隠の諸相 中世武士道と経済観 嘉村 孝
今回はちょっと視点を変えて、中世武士道と経済の理念のようなことを考えてみたいと思います。
何年か前のビッグバン以来、最近の日本は様々な分野でいわゆる「規制の緩和」が進んでいます。「IT革命」などというのもその一つでしょう。色々な会社がその影響を受けています。
いったい、こういう経済をめぐる発想なり理念と、武士道の話とがどうして結びつくのか疑問に思われる方も多いと思います。これは、武士道という観念をどう捉えるかにまずかかわります。
宮本武蔵のような戦国の武芸者の武士道は個人的な色彩が強いでしょうが、江戸時代に入って国民国家的なものができあがってからは、武士の行動、国民に対する規制(例えば「切り捨て」)にも一定の大義名分なり理念が必要になってきました。それは経済に対する考えや経済的な規制についても同様です。したがって、各時代における武士の経済観と現代のそれとを対照して考えることは今の我々にとっても有効だと思います。
そこで、戦国時代の武士が、経済や商業についてどんな考えを持っていたかですが、現代との顕著な違いは、兵農未分離どころか兵商非分離ともいうべき中世武士の生き様があることでしょう。その代表が織田信長の楽市楽座で、彼は武士であると同時に立派な経済人なわけです。葉隠の地元でも中世の少弐、千葉、江上らはこの傾向が顕著です。私は、現代の米国もまた、世界最大の軍事国家であり、かつ通商国家であるという点に共通のものを見ます。
佐賀市にある与賀神社の楼門は、室町時代に現在の龍泰寺を城として持ち、与賀神社を鬼門の鎮守とした少弐政資が寄進したものといわれます。彼は鎌倉時代の武藤資頼以来、大宰府の主ですが、中国地方の大内氏のために対馬に押し籠められていたのを、1400年代の後半、大内氏が応仁・文明の乱で京都に出払っていたすきに大宰府を陥れ、返り咲きを果たしました。しかし、大内氏が帰還すると再び追い出されて佐賀を拠点として活動することになるのです。そんな弱小の少弐氏が鎌倉時代以来数百年間にわたって存続しえたのは、四国の銅を朝鮮に輸出するなど、「少弐」という官名に伴う貿易権を有していた事が大きいといわれます。即ち、彼らは武士であり、かつ、商人なのです。
そして、竜造寺隆信も正に同じであって、彼が最後に佐賀から三瀬峠を越え現在の福岡市にある曲渕城や安平城を攻略して室見川を通じて博多に手を伸ばしたのも、海外貿易の利権に食指を動かしたということと思われます。葉隠には彼らの動勢がいろいろと出てきますが、朝鮮の申淑秀が著した「海東諸国記」にも、筑紫山地の南に位置する諸勢力の、山地を越えての朝鮮貿易に関する実態が出てきます。
一方、織田信長はなぜ安土に城を築き楽市令を布いたのでしょうか。そもそも、東海道の本道は鈴鹿の峠ですから、安土はそれに外れます。しかし、ここは愛知川(えちがわ)の水運があり、琵琶湖への出口に当ります。そして五箇の庄など近江商人発祥の地でもあります。つまり、筑紫山地と同様の鈴鹿の山を越えるルートであり、官の本道からずれているだけに「規制緩和」になじむところです。
こうして、信長の山越えと、竜造寺隆信の山越えとは同じ発想と思われますが、特に近江の野洲郡、神埼郡などには、江頭、杠葉(ゆずりは)、常富など佐賀特有とも思われる地名や人名があり、非常な興味を誘います。
