伊達政宗と葉隠、遣欧使節

葉隠の諸相  伊達政宗と葉隠、遣欧使節      嘉 村 孝

伊達政宗のことは、何回か書きましたが、葉隠との関係も色々あって、面白い人です。

文禄・慶長の役の折、唐津近郊の名護屋城に彼がやってきて、この城門が、戦のあと仙台に運ばれて、第二次世界大戦の末期に爆撃によって焼失するまでは仙台城大手門として使われていたことは以前も記しました。

特に文禄の役で渡海して外国を見てきた政宗は、正に世界的な人だったといえるでしょう。

葉隠の中には、例えばこんな話があります。政宗が、その頬を打った相手・兼松又七郎を「日本に隠れなき伊達政宗の頬を打った其の方は曲者に似たる者なり」と褒めて、それを黙視した小姓を切腹させたという話しです。

ところが、この話し、もう少し詳しく書いてあるものとして「見聞談叢」があり、そこでは、単純に兼松又四郎(葉隠では「又七郎」)が頬を打ったのを、小姓が黙視したという話しではなくて、内藤左馬介の邸で能狂言の催しがあるときに、政宗も招かれ、隣席にいた兼松の膝頭を、つい政宗が蹴ったことによって、兼松がその無礼に憤り、政宗の肩頭を後方から三つ、四つ打ったこと、それに対して政宗が「卑怯なり。それほど腹が立つのならどうして早く切らなかったのか」と兼松に迫って、今にも大事となるべき形勢となり、ようやく双方なだめて仲直りの杯を交わすことになったところ、政宗がその土器の酒を飲み干して、一節舞を舞い、「打て腹だに癒るならば、いくらも打てよ兼松め」と長く引いて謡ったので、兼松は再び憤激して、全身ぶるぶると震えて手に持った土器を思わず二つに掴み割った、という話です。こちらのほうがよりリアルかなと思います。

               ☆        ☆

さて、それはそれとして、政宗の国際性をあらわすものは、何といっても支倉常長の慶長遣欧

使節でしょう。

日本の西からポルトガルのリスボン経由でローマに行った天正の少年遣欧使節が、いわば宗教に基づく使節であったのに対して、キリスト教禁止令がひたひたと押し寄せてきていたこの時期、東からスペインのセビリア経由でローマに行った常長の場合、貿易上の利益という経済的意味が大きかったといわれます。

そして、このような彼の計画の背後には、ヨーロッパにおけるポルトガルとスペインとのいわゆるデマルカシオン(世界分割)が大きく機能しているというのもまずは間違いないのではないかと思います。

ちなみにこのデマルカシオン、地球をスイカを割るように上(?)から線を引くものですが、東半球については、スペインのサラゴッサで締結されたサラゴッサ条約によるわけで、これにより、日本の西はポルトガル、東はスペインの領分(?)とされました。ですから、このラインの上下(?)では、台湾、フィリピン、モルッカ、チモールでも、日本と同じようにポルトガル、スペインの両方がやってきて、綱引きが行なわれており、様々な交渉や、現代にまでつながる紛争の元をなしてもいます。このことを押さえておくことは大切でしょう。

そして、政宗がローマ教皇に宛てた文書、その他セビリアの主教に宛てた文書など沢山残っており、特にローマ教皇に宛てたものは非常に面白いものです。貿易のためならばローマ教皇に膝を屈してでもどころか、「五番目之はっは・はうろ(パッパ・パウロ)様の御足を、於日本奥州の屋形伊達政宗、謹而奉吸申上候。」などと、何が何でも貿易を始めたいという意志が極めて強く出ています。一八〇人もの人間を送るような大事業をどうして行ったのか、またそのための土木事業として貞山堀を作ったり、月の浦を整備したことの理由については色々な説があって、最近新幹線に乗ったところ、「一六一六年に起きた地震の復興資金を集める為」などというものも出ていましたが、もっと大きく見なければならないと思います。こうした企てを行って、兵器を買い入れ、幕府を潰そうとした、とまでは考えていなかったとしても、西の佐賀までやってきて、松浦や長崎方面の国際的大名がポルトガルらとの交易によって相当な利益を得ていることを見た政宗は、それなら自分は東からヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)との交易路を開いて経済的な利益を得ようとしたという遠大な計画だったことは間違いないでしょう。

当時の人間は極めてグローバルな視点を持っていたという典型例として、大変意義のある話ではないかと思います。

タイトルとURLをコピーしました