儒学者!?石田一鼎

葉隠の諸相  ―儒学者!?石田一鼎           嘉 村 孝

 葉隠の四哲の一人として石田一鼎が挙げられます(あるいは五哲として、山本常朝、田代陣基、この一鼎、湛然の他に絶学了為を挙げる人もいます)。

で、この人の場合、その著書「要鑑抄」にある「一、武士道において未練を取るべからず。 二、先祖の名字を断絶すべからず。三、畢竟主君の御用に立つべし。」のいわゆる三誓願が、常朝の四誓願の元になったとも言われています。

この三誓願のうち二番目の「先祖の名字を断絶すべからず」ですが、およそ武士道を論ずるのに、なぜ先祖の名字の話が出てくるのか、と訝られる向きもあるでしょう。しかし、以前も記したとおり、これは、武士道(特に儒教的な「士道」)にとって、極めて重要な要素です。即ち、忠の前提である「孝」の思想からみますと、先祖を大切にすることは、その名字を大切にすることにつながる。正に武士道の根本的な価値の保全です。ですから、その名字を断絶するなどということはおよそ許されません。この点は特に朝鮮儒学において、名字が極めて大きな意味を持ち、つい先年まで、例えば李家の養子は李さんの家からしか来られなかったということからも、その儒学的な重要さが分かると思います。この点を強調するがゆえにこそ、石田一鼎は「儒学者」という評価があるわけです。そして、この部分は正に儒教をバックにしており、「大慈悲」を説いた湛然とは対になるというわけです。

彼は上記「要鑑抄」の中で、「先祖名字」という段を設け、名字の重要性を説いています。云く、「先祖を論ずるに両重あり。一には一生の先祖、二には生々の先祖なり。初に一生の祖と云ふは、親祖父より先、曾祖父高祖父代々、何某より此の名は始まりたると云ふ人を先祖とす。もし其の先を論ぜば天地を祖とすべし。

次に生々の先祖と云ふは、一念迷ひし初より、六道四生に輪廻して親となり子となる。是を以て之を観れば、一切衆生皆是親なり。皆是子なり。我より上たるを親として之を敬し、我より下たるを子として之を愛すべし。もし其の先を論ぜば、衆生の輪廻一念を初とする。一念は心より起る。一心を萬化の本源とす。一心の中に三宝あり、神祇あり、天道あり、聖賢あり。本これ一体にして衆生の為に神用を異にす。天地も是に由りて開け、人物も是に依りて生ず。実に天地万物の始なり。されば則ち一生の先祖に、名字を始めたる人を先祖とする事、天道の冥加に叶ひ、よく一生の役を勤むるに依って、或はその在所の名、或はその官の名、名乗等を以て名字と号し、子孫の首に頂戴せしむ。則ち冥加の有る所なり。若し名字を疎かにする者は、冥加なくして天罰を蒙るべし。但し主命ならば名字をかふるとも科なかるべきか。天罰を蒙るべきとて主命に背かば、忠とは云い難し。然る時は、主人としても粗忽に家中の者の名字を断絶すべからざる事なり。況んや一旦の利潤の為に、名字を退転せしめたる者、その罪遁るべからず。慎まざるべけんや。」と。

しかし、以上を読まれて、あれ?これ変だぞ!?と思われた方もいらっしゃるかもしれませんね。なるほど儒学だ、と素直に言えるでしょうか。確かに、名字の大切さは説いていますが、「一切衆生皆是親なり。皆是子なり。我より上たるを親として之を敬し、我より下たるを子として之を愛すべし。」などとあるのをみると、そこにあるのは、仏教的な一体感であり、儒学的なものではありません。儒教の名字という枠の中に、仏教的な森羅万象あるいは平等の発想が見えるのです。

一方、彼は「要鑑抄」の中で、しきりに「体用」を使用します。体用は宋学において重視され、因果と対になって取上げられる概念であり、風と波が因果の関係であるならば、水と波との関係、即ち本質とその派生との関係として捉えられます。孟子の四端の考え方も、宋学では用としての惻隠の情は体としての性が善であることの顕れ、と説かれます。

一鼎もこれを多用し、例えば「士は我が身を捨てて御用を達す。是を忠の用と云ふなり。忠の体と云ふは、天地万物一体にして更に生死なし。是を己を尽すとは云ふなり。何をか孝と云ふや。本に報ずるなり。世間には親を養ふを孝と思へり。これ悪逆のともがらの親を凍餒せしむるに比せば、宜しき様なれども、家内の犬猫迄養はでは叶はざる道理なり。親を犬猫に同じくせば、孝とは云ふべけんや。夫れ孝と云ふは本来生死なけれども、恩を報ぜんが為に其の形を現はす。行儀正しく才能あって国家の御用に立ち、先祖の名字を連続し、親の名を挙ぐるは孝の用なり。体を論ずる時は忠と一体なり。故に忠孝は本一つなり。此の理を忘れざるをば、忠孝を以て心とすと云ふなり。」と言います。

そんなわけで、彼は「体用」の論理を用い、宋学のフレーズを巧みに使用しますが、右の体用論でも、中身はやはり仏教で、そもそも考えてみれば、上記「誓願」を立てること自体も仏教です。

このように一鼎の述べるところは、むしろその本質において仏教であって、やはり葉隠は、仏教を本質とする武士道といってよいのではないかと思います(なお、体用の論理自体が仏教の焼き直しであるとの批判が宋学の大成者朱子に向けられたこともありました)。

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