葉隠の諸相
―初期の武士道提唱者・中江藤樹の思想の遍歴―
嘉村 孝
今や、近江聖人・中江藤樹の名前も忘れられそうですが、昔は孝子として、聖人として、有名です。この人、一六〇八年に生まれ、わずか四一歳で亡くなった江戸時代最初期の人です。彼が書いた本、特に『翁問答』の後半部分は、士道(さむらいどう)としての侍の生き方を書いています。その中に『甲陽軍鑑』のことも書かれていますから、多分、「武士道」という言葉を最初に多用した『甲陽軍鑑』より、若干後れる書物ではないかと思いますが、いずれにしても最も古く「武士道」や「士道」を説いている一人ということができます。葉隠は、一七一六年ですから一〇〇年近く早いということでは。
さて、中江藤樹の一生の概略は彼の『年譜』によって知ることができます。まずは、近江の農家に生まれたのですが、祖父が加藤公の家来として、米子や伊予の大洲で仕事をし、彼はその祖父の養子となって、大洲に行きました。しかし、二七歳のころ、当時もう高齢になっていた母のため、郷里の近江に帰ったというわけです。このあたりについては、その昔の、講談社だったか小学館だったかの絵本では、若くてきれいなお母さんが帰ってきた中江藤樹を「学問の途中でやめてはいけません」と正に柳眉を逆立てて叱る場面等が出ていましたが、実際は相当なお年寄りであり、藤樹も二七歳になっていて、あれははっきりいって嘘です。
そんな話は別として、まず彼の勉強ですが、最初は朱子学から入りました。そして、彼にとって大きな問題が「格套」ということです。この言葉の意味は、朱子学的なピッチリとした原理原則を大事にするということです。それは一言で言えば「述べて作らず」。特に「四書」という朱子の編み出した四つの経典をそのまま内容を深化させるだけという、悪く言えば道学先生的なコチコチです。なので、彼は三十歳の時、結婚します。これは論語に「三十にして立つ」という言葉があることから三十歳で結婚したということの様で、いかにもコチコチ人間であることがわかります。
ところが、彼の考えは段々と深まっていきました。特に、儒教の根本的な経典である『孝経』の「孝」という考え方が、一般的には親に対する孝行、というものだったのを、どんどん深めていきました。「孝」の観念は、東アジアにおける新石器時代からのものともいわれ、現に博物館などでもそのような展示が見られますが、要するに、この体は親から受けたものだ。だから「身体髪膚これを父母に受く。あえて毀傷せざるは孝の始めなり」という有名な言葉になるわけです。そして、そこから「忠」というものも生まれてくるというようなわけで、儒教の根本です。
ただ、中江藤樹はこれをさらに深めて「孝」の元はなんなのかと考えた時に、それは「天」であり、天そのものが孝の対象である。その天の真実性(少々難しい表現ですが仏教の大慈悲ともいうべきもの)は、我々の体の中に体されているということになりました。しかして、日本で天というと天照大神が祀られている伊勢神宮ですね。しかし、三十歳前半までの藤樹は、伊勢神宮はあくまでも、この格套の観念からいくと、皇室の宗廟であるから一般庶民が参るところではないと考えていたわけです。これはある意味儒教の常識であって、例えば現在の韓国の宗廟も、あそこは李家の祖先を祀るところですからの人しかお参りしません。
『佐賀新聞(二〇〇七年七月一三日・高尾平良氏の論稿)』にも伊勢神社の話が書かれていて、「伊勢神宮は古くから皇室の宗廟として、未婚の皇女である斎宮によって奉祀され、神前への奉幣も天皇に限られ、皇族の奉幣すら禁じられていた。が、九世紀には皇室内の主導権争いにからんで、伊勢神宮に奉幣する皇族・貴族があらわれ、延暦年間(七八二―八〇五)の『皇大神宮儀式帳』によれば「王臣家ならびに諸民、幣帛を進めせしめず重ねて禁断、若し欺事をもって幣帛を進むる人を流罪に…」と、天皇以外の奉幣を重罪としている。しかし十世紀初めの『延喜式』の『大神宮式』には「…幣帛を、三后・皇太子もしまさに供すべき者あらば臨時に奏聞せよ」と皇后・皇太后・太皇太后および皇太子に限り天皇の許可を得ての奉幣を認めている。古い時代の伊勢神宮は、庶民信仰とは程遠い神社であった。」とあるとおりです。
そして、このことを強調したのが、むしろ藤樹より後代になるのですが、水戸黄門であり、和辻哲郎先生は『日本倫理思想史』の中で、「(黄門の)士道の立場は怪力乱神を説くことを好まない。『西山公随筆』などには顕著にこの傾向が現れている。伊勢神宮のために初穂を集めて歩く御師の活動などは、彼(水戸黄門)の喜ばないところであった。
元来伊勢は日本の宗廟であるから、その祓、供物などは、民衆のたやすく受くべきものでない。これが彼の主張であった。八幡宮崇拝に対してさえも、彼は、応神天皇神功皇后等を弓矢神・氏神などとして尊崇する謂はないという異論を出している。……
士道の立場はまた鎌倉時代以来の武者の習をも好まない。軍記物で賛美された主従間の献身的道徳は、室町時代にあっては、義経記や曽我物語として民衆の間に沁み込んだが、しかし義経主従や曽我兄弟のような民衆的英雄は、光圀の眼には、士として上乗のものではなかった」。と言われています。これが「献身的道徳」を説く葉隠武士道と正に対極の「士道」です。
したがって、水戸黄門の場合は、上記のとおり伊勢神宮に当時あった御師、即ちお札をくばる職業などはとんでもないことだということになり、現在も伊勢神宮にはその伝統がありますから、そこには、賽銭箱というものが原則的にありません。あくまでも特に伊勢の内宮は皇室自体の宗廟であり、お参りをするのは皇室だけだというような考え方なのです。私達の今の常識からは相当離れていますね。しかし、それが逆に韓国と同じで伊勢神宮がアジア的、ということでもあります。このような考え方は江戸時代の民衆によって、その時代を経過することで、国民全体の宗廟化したのでした。
もう一度話を中江藤樹に戻しますと、彼によれば、天照大神というものは天であったという考え方です。これは、アジア的な、天人相関説の原則を非常に広くとらえたものということができます。そして彼は、ちょうど三三歳の時、王陽明系の王龍渓の書に触れることがあり、ここで初めて格套から抜け出し、上記のように真実性や大慈悲はこの我々すべてのなかに備わっているのであり、その大本は天にあるのだというような、分かりやすくいえば大きな発想を持ち、そして、伊勢神宮をそのための大切な場所という風に認識し直しました。
それで三四歳の時、初めて伊勢神宮に参ったというわけです。
こうして彼は、現在では日本における陽明学の祖であると言われており、また水戸黄門らの朱子学をもとにした山崎闇斎的な武士道とも全く異なる発想をもった、私にいわせれば広い考え方を持った水戸や会津と異なる「士道」の人だということができると思います。
