千葉一族の妙見信仰:日蓮宗

葉隠の諸相 ―千葉一族の妙見信仰:日蓮宗―         嘉 村 孝

今年は千葉開府八九〇年、つまり、今の千葉市に相当する町ができてからそういう年に当るとかで、千葉市では様々な行事が行われています。その千葉あるいは千葉氏が佐賀県と深くつながっていることは、皆様ご承知のとおりです。

即ち千葉氏は、源頼朝による旗揚げの際、彼を助けたことから、鎌倉幕府開創に当り、頼朝から現在の佐賀県小城市の晴気庄の地頭に補され、その後の戦国時代、鍋島直茂が有力武士団となった千葉氏の養子になったことから、後に小城藩が成立しました。葉隠の中にも千葉の妙見大刀のことが出てくることなどその基底をなす情報といえるでしょう。

ただし、このテーマは以前も取り上げたことがあるので、今回は千葉氏の妙見信仰の話と日蓮宗との関わり、それが佐賀の有田焼につながることを特に強調したいと思います。

ざっとおさらいをすると、千葉一族は元々桓武平氏・平良文(村岡五郎)の子孫と言われています。そして良文が、承平元年(九三一年)、平国香との上野国染谷川での戦いの折、妙見菩薩に助けられたという伝承から、千葉氏は、千葉庄(現在の千葉市)を本拠にすると、そこに北斗山金剛授寺、現在の千葉神社を創建します。それは、要するに妙見社であり、小城には現在も妙見社がしっかりとあります(むしろ千葉一族がいたところにはどこにも)。

そして、良文の子孫である千葉常胤は、一一八〇年の源頼朝の旗揚げに際し、上記のとおり石橋山の戦いで敗れた頼朝を千葉に迎えて態勢の立て直しに貢献したことから、頼朝により以後重用されることになります。『吾妻鏡』においても、お正月に将軍に椀飯を献じる順位が第一位であることがたびたびで、最高位の御家人です。千葉氏がそのような頼朝を助ける行動に出た背景には、常陸の佐竹氏との相馬御厨(今の千葉北部)をめぐる対立関係があり、後の頼朝による佐竹攻めにもつながりました。

常胤の子は、相馬、武石、大須賀、国分、東(とう)などに分かれ、全国的に発展していきます。

こうして、晴気庄の地頭に補された千葉一族は、元寇の時、実際に常胤の子孫にあたる千葉頼胤が西国に下向し、『北肥戦誌』によりますと、頼胤は博多での蒙古との戦いによって疵を蒙り、小城で生涯を閉じ、その子宗胤、孫胤貞等々が以後九州千葉氏として肥前の強大な勢力になっていきます。

ところで、この妙見信仰ですが、妙見菩薩自体は際めて古い神様というか仏様のようです。元々は北方の草原地帯で、北極星や北斗七星を神としたものだったようで、それが中国に渡って道教・仏教と習合し妙見菩薩となりました。遣唐使関係の本、例えば、円仁の『入唐求法巡礼行記』などを読んでいると、妙見菩薩にお祈りして航海の安全を祈ることがたびたび出てきます。つまり、妙見は、その名前からいっても「見る」ことにつながり、交通において極めて大切な星として、砂漠の旅行においても海の旅行においても、これを尊崇し、その安全を祈ったということがあったようです。遣唐使は日本から東シナ海、中国の寧波、大運河、長安への途次、あちこちで妙見菩薩を祀り、旅の無事を祈りました。その信仰は、千葉一族に取り入れられ、常胤の子孫は、北は東北から南は鹿児島に至るまで、全国に伝播しましたから、益々妙見信仰が大事なものになったのでしょう。

一方、話しは変って、『成田参詣記』によると、千葉家の家来であった富木(土岐)常忍は、東京湾で日蓮上人を船に乗せてあげ、鎌倉から中山(市川市)に至る道中、上人と色々と話しをした結果、遂に日蓮宗の信者となりました。そして、簡単にいえば、自らの城を提供して、それが市川市に現在残る中山法華経寺となりました。中山法華経寺には、伊東忠太博士による建築物の中に国宝の立正安国論が保管してあります。そして、佐賀とのルートを言えば、市川から金沢文庫の上行寺、朝比奈の切通しを通って鎌倉の小町大路にある妙本寺をはじめとする沢山の日蓮宗寺院、例えば妙隆寺には、室町時代、将軍足利義教から熱い鍋をかぶせられたとも言われる日親の伝承があり、彼は、このルートから更に京都そして、小城へ行ったとの話もあります。こうして千葉の文化は、千葉一族とともに小城にまでやってきましたので、小城には、現在も江戸時代の面影を残す上記妙見社があり、そして、日蓮宗の鎮西総本山・松尾山光勝寺があります。

かくして、妙見信仰と日蓮宗とは千葉一族にとって極めて大切なものであるところ、遂には、妙見信仰と日蓮宗とがいわば習合し、先日板橋区立郷土資料館で行われた千葉一族の展覧会においては、日蓮宗のひげ文字と妙見菩薩とが一体となっている像などが数々見られました。

更に、我が佐賀県では、松尾山光勝寺の末寺である法元寺が有田町に置かれ、鍋島藩において、有田焼の焼成の無事を祈る祈祷寺となりました。今年は、有田焼も創業400年。関東の八九〇年の千葉氏と四〇〇年の有田とが奇しくもこのご縁でつながっています。

このように、千葉一族の、西遷、東遷は非常に面白いものですが、そんなわけで、是非またゆっくりお会いしたいものと思っていた声明・法式の第一人者・鎌倉妙本寺の小城市出身・早水日秀貫主様がこの2月に亡くなられたことは誠に残念であり、ここに特記し、ご冥福をお祈りしたいと思います。

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