葉隠の諸相 ~吉野ヶ里の堀と世界~ 嘉 村 孝
享禄三年(一五三〇年)、中国の大内義隆の来攻に際し、鍋島清久の率いる一団が、赤熊の面を被ってこれを迎え撃ち、見事勝利を収めたことは、田手畷の戦いとして有名ですが、その田手畷からやや西に位置するのが有名な吉野ヶ里遺跡です。
今回はその吉野ヶ里の堀について、全くの素人ながらロマンを記してみたいと思います(いささか無責任ですが)。この堀は、後世薬研堀と呼ばれるV字型の形をなしています。その総延長が極めて長く、大規模であることは、かつて報道されたところですが、このような堀は世界に見られるものではないかと思います。
例えばヨーロッパを見ますと、吉野ヶ里とさほど違わない時代に造られた、世界遺産になっているリーメスというものがあります。これは、「limit」という言葉の語源になったそうで、フランクフルトの北方約二十キロのところに博物館などとともに残っています。
あのあたりから南は、約二〇〇〇年前ころはローマ人の領域でした。その北にはゲルマン民族が南下の機会をうかがっていました。
そして、それを防衛するためのものとして、北西方向からはライン川が、東方向からはドナウ川が流れているわけですが、この二つの川の間には、自然の防衛線が乏しいのです。
そこでローマ人は、ちょうどその頃、吉野ヶ里とよく似たスタイルの堀を作った。それが「リーメス」であったというわけです。
このリーメス、まさに薬研堀であって、それに沿って、ところどころに小さな城がチェーンのように点々とつながっています。
このような城のあり方は、多摩川沿いや帷子川沿いの後北条氏の城跡をも思い出させてくれますが、時代こそ違え、ヨーロッパも発想は全く同じだなと思わせます。しかもこのV字型と木柵は、吉野ヶ里に瓜二つでもあります。
こうして同時代とはいえ、洋の東西に全く同じものがある・・・実は、中央アジアにも、やはり同じような「オングゥ」と呼ばれるものがあるそうです。
では、これらの堀はどんな機能を営むかというと、人間だったら走り抜けて通っていくことも可能でしょうが、特に騎馬民族にとっては、馬がここを突破することができないという仕組みのようです。
ですから、こうした堀が世界中にあるのは当たり前とも言え、例えば、福島県の阿津賀志山、ベトナム戦争時代の南ベトナムなどなど、思い起こしていくと、文化の東西への伝播は、教科書的に言われる、ヘレニズムなどを越えた遥か以前から始まっていたことなのでしょう。仲良くさせていただいている考古学者云わく、三千年も昔の小アジアにおけるヒッタイトの滅亡は日本にも影響を及ぼしているとか。
そんなことを思っていると、吉野ヶ里の堀は、まさに佐賀県やその他数々ある世界的なものの一つの表れで、むしろ、佐賀県が大昔から世界に開かれていたことの「あかし」であるような気がします。
