大隈重信と葉隠、そして明治維新

葉隠の諸相 ―大隈重信と葉隠、そして明治維新―

 嘉 村 孝

『国史大辞典』によれば、明治維新の“維新”とは、『詩経』の「周旧邦と云えども、其命維(これ)新まる」に由来するとされています。つまり中国の古代国家、殷が周に変わった時、天の命が改まり、それを“維新”と言ったというわけです。いずれにしてもこうした名前がつくと自体、この当時の発想の中には極めて中国的なものがあることが分かります(当時の鎖国体制下の情報源からは当然とも言えますが)。
 次に、この明治維新はいったい何時から何時までのことを言うのかという話ですが、嘉永六年(一八五三年)のペリー来航は良いとして、終期についてはいくつかの説があり、特に、明治一二年の琉球処分を画期とする説があります。これはそれ以前の樺太・千島列島交換条約によって北方の領土が定まり、この琉球処分によって南の領土が定まったということによるようです。しかし、私はむしろ、その後の明治二二年の明治憲法制定まで下らせたほうが良いのではないかと思っております。それは、ウエストファリア条約(一六四八年)などによっても、国家というものは領土・国民と共に主権がなければいけませんが、その主権が近代法的に定まったのがこの明治憲法においてだからです。 
 では、次にそのような明治維新の原動力になったものは何か。そのことを端的に述べているのが国権主義の憲法学者穂積八束が法学協会雑誌に書いた帝国憲法の由来を記した論文であり、そこで彼は、水府の史論そして国学の振興を挙げています。私も、彼の全般的な考え方に賛成するかしないかは別として、それが正しい見方ではないかと思っています。すなわち、いつも申し上げるところの水戸の『大日本史』を始めとする発想即ち水府の史論であり、また国学も、特に復古神道がそうであるということになるわけです。そして、これらもいつも言うとおり、いずれも中国文明に由来しているというところがミソです。

このような原動力が特に蛤御門の変、長州征伐といった事件が起きて行く中で最終的に幕府の限界が見え、朝廷と江戸の将軍との二元政治から一本に纏めるということになった時、特に火力に勝る薩長土肥の強烈な力が働いて、結局は朝廷政府が出来上がったということでしょう。 
 そこで次に、そのような中で大隈重信がどんな動きをしていたのかということですが、実際のところ、年上の江藤新平はまだしも大隈の方は他藩の志士ようにまでは動き回るという事はなかったようですね。もちろん、鍋島閑叟がストップをかけていましたし。

そして、大隈重信自身が語ったところを記した『大隈伯昔日譚』にはこんなことが書いてあります。「私が初めて学問をした時の佐賀藩の学制はこのようなものであったが、更に窮屈な思いをしたのは、佐賀藩特有の国の定めとも云うべき一種の武士道が加えられたからであった。その一種の武士道というのは、今から凡そ二百年前に作られた。実に奇妙なもので、その武士道は一巻の書に綴られ、書名を『葉隠』(はがくれ)と云った。その要点は、武士であるなら、佐賀藩のためには唯死を以て尽くせと云うにあった。いかに世界が広くとも、藩の所領が多くとも、佐賀藩より貴重なものは他にないように教えたものである。この奇妙な書は、佐賀藩士凡てが遵奉しなければならないもので、実に神聖にして侵す可からざる経典であった。巻を開くと『釈迦も、孔子も、楠も、信玄も、嘗て一度も鍋島家に奉公した事のない人々であるから崇敬するに足りない』旨を記した一章がある。これだけでもこの本の性質がわかるだろう。なお信玄を釈迦や孔子と一緒にしたのは、その当時信玄がどれだけ武人の人間に尊敬されていたかが明らかである」と。

つまりここで葉隠が出てくるわけです。この大隈重信の述べているところは『葉隠』という書物の中の、特に山本常朝が述べた部分の内、さらに些か極端な部分をピックアップしているわけで、しかし、相当程度当たっていると私は思っております。
 一方、その当時、佐賀藩では義祭同盟というものが行われました。これは副島種臣の兄である枝吉神陽が主導して行われたものですが、これも実は葉隠と極めて大きなつながりがあるのであって、一七〇〇年ころ、山本常朝の友人である深江深渓という人が、楠木正成と正行、つまり楠公父子の像を現在の佐賀市大和町で祀り始めました。そして、幕末、現在の佐賀市龍造寺八幡宮の隣に楠公社というものを作って盟約が結ばれたのが、いわば尊王攘夷の人々の集合体・義祭同盟という訳です。バックを仏教に置いた葉隠といっても、常朝らの中にある儒教的なものが大義名分論化してここで勢いを持ったということでしょう。

ちなみに大隈重信は、同じく『大隈伯昔日譚』の中で、維新改革の原動力の一つはいわゆる儒学であり、二番目は国学であり、三番目は神道に属するものであると言っています。この分析は、正にズバリ当たっていると私は思います。
 さて、そこで明治維新に至る経緯については、そのような様々な経過があり、また様々な問題点が指摘できるとは思うものの、一旦起こってしまえば、では大君(将軍)から天皇にいわば主権が変わったあと、どのような国家像を目指すべきだったのかという所が一番大事なことではないかと思います。

ここで大隈らの動きをみますと、明治六年の政変、つまり征韓論者の政府退出後、大隈は政府に残りましたが、結局明治一四年の政変でその地位を追われ、後の日本は、正にドイツ(というよりもプロシア)の影響が強い国を目指すことになったわけです。これに対し、放逐された大隈らの一派がどんな政体を考えていたのかを考えてみると、それは、物の本にいわゆる英国流であると書いてあるとおりです。

では更に、その英国流なるものの中身はどんなものなのかと考えてみますと、私は、まとめていえばジェレミー・ベンサムやジョン・スチュワート・ミルらの主張する功利主義(最大多数の最大幸福)の見解だと思っています。なぜそう考えるかというと、現に、明治初年から二〇年位までにかけては、このベンサムやミルらの書いたものが『自由論』や『自由の権利』などなどたくさん翻訳されました。そして、特に、こうしたことについては大隈重信のブレーンといわれる小野梓らが非常に大きな役割を果たしたようです。そして、このベンサムらの考え方はどういうことかと言うと、これまた中身は極めて複雑ですが、具体的に果たした役割を考えれば、そもそもビクトリア朝のイギリスは、当初経済は発展したものの社会の格差が広がって、底辺に喘ぐ人々は非常に苦しかった。そのことはイギリスの国民的小説家・ディッケンズのいくつもの小説に出てきます。そんな中、例えば学校で言うならばオックスフォードやケンブリッジなどの超エリート校だけではダメなのだと、中間層となるべき人たちをしっかり作る学校が必要だというベンサムらの発想がありその尽力によってロンドンにロンドン大学ができました。現在、ロンドン大学の入り口には最大多数の最大幸福を目指し、自分の遺体も役立ててほしいという遺言に従い、ベンサムのミイラがしっかりと座っておられます(以前は足元に頭のミイラが置いてありましたが、学生が盗んでしまったので、回収して厳重保管)。そして、そのような考え方から数々の社会政策的な施策も施され、イギリスはビクトリア朝の絶頂期を迎えることになりました。

こういう考え方に親和性を持っていた大隈らでしたが、上記のとおり明治一四年の政変によって中央を追われ、大隈は早稲田大学を作ることになります。一方、日本は上記のとおり軍事国家ドイツを模範とする国家になっていったのです。

歴史にもしもはないとも言われますが、これからの日本を考えるについても『大隈伯昔日譚』や『大隈候昔日譚』は改めて読む価値があると思いますし、近頃出版された『佐賀学Ⅲ』に引用された大隈の反省文も十分味読に値します。

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