葉隠の諸相 「姜沆と藤原惺窩ら」
嘉 村 孝
ここのところ室町時代からの日本と東アジアの歴史を追ってきました。
特に戦国時代末期においては、豊臣秀吉が一五九三年(文禄二年)、中国の明に対し「大明日本和平条件」として送った第一条に、「和平誓約相違なくんば、天地たとい尽るといへども、改変あるべからずなり。しからば即ち大明皇帝の賢女を迎え、日本の后妃にそなうべき事」などとあって、アジア的華夷秩序の「兄を中国とし、自らは弟とする」ような発想がここでは見られたものの、しかし、一方では西洋のアジア進出という新しい価値観の渡来があり、「兄弟」は当然のように崩れ、猛烈な勢いで朝鮮半島に渡っていったのが文禄・慶長の役だったと思います。
その過程ではたくさんの朝鮮や、明の人々、例えば赤穂浪士の武林唯七のお祖父さんなども日本にやってきて、朝鮮からの洪浩然のように、武士になった人や、焼物をはじめとするいろいろな文化が佐賀に花開いたことは私達に顕著なことです。
一方、秀吉は上記のとおり華夷秩序を破壊しようとしたのに、その後再び徳川の世になって、将軍が日本国大君と称する日本版ミニ華夷秩序形成となった心性の移り変りはどうだったのだろうと、歴史の先生とは少し違う思想の面からど素人の疑問を持って考えてきました。
それについてよく言われるのが、韓国の姜沆、藤原惺窩、そして、林羅山らの話しです。
姜沆は、慶長の役(一五九二~)で藤堂高虎の軍勢に捕まり、朝鮮半島から伏見までやってきました。捕まってから最後に帰国するまでのことを書いたのが『看羊録』です。一緒に捕まったのは二十数名、実際のところ何千以上の人があちこちに抑留されて、遂には日本人になった人の話も載っています。そして、京都の伏見で出会ったのが、藤原惺窩でした。
彼はもともとが播州三木市あたりの人で、西の龍野の城主が赤松広道(斉村政広)といって、要は以前問題にした赤松満祐(嘉吉[かきつ]の乱)の、世代としては下った係累でしたが、この人がものすごく儒学に凝っていて、その縁もあり、惺窩は相国寺の坊さんだったのが、ある日ある時還俗し、儒教的な妻帯までしたということです。しかし、彼の中にあるのは中世以来の禅宗の中にあった三教一致という儒仏道の三つの教えの習合でしたから仏教についても相当な親和性を持ち続けた人だったと思います。
そんな藤原惺窩について『看羊録』は以下のように述べています。
「私は、倭京に連れてこられてからというもの、倭国の内情を知ろうと思って、時々倭僧と接した。その中には、文字(漢字)を知り、ものの理も識っている者がなくもなかった。
また、妙寿院の僧、舜首座(この人が惺窩)なる者がいる。京極黄門[藤原]定家の孫で、但馬守赤松左兵[衛]広通の師である。[彼は、]大変聡明で、古文を[よく]解し、書についても通じていないものがない。性格も剛峭(強くきびしい)で、倭では受け容れられる所がない。内府[徳川]家康が、その才賢を聞き、家を倭京に築いて、年に米二○○○石を給した。舜首座は、その家を捨てて住まわず、扶持も辞[退]して受けず、ただ若州少将[木下]勝俊、[赤松]左兵[衛]広通と交遊した。」と。
また、このことについて惺窩の伝記を記した『惺窩先生文集』では、
「朝鮮刑部員外郎姜沆、来りて赤松氏の家にあり。沆、先生、日本国にこの人あるを喜び、俱に談ずること日あり。沆、曰く、「朝鮮国は三百年以来、かくの如きの人あること、吾、未だこれを聞かず。吾、不幸にして日本に落つといへども、この人に遭ふはまた大幸ならずや」と。沆、先生の居る所を称して広胖窩となす。先生、自ら称して惺窩と曰ふ。これを上蔡のいはゆる惺惺の法に取るなり。」と。
この段階で、日本の儒教文化が、強固なヒエラルキー文化、果てはいわゆる日本的華夷秩序と言われるようなものになって、「武士の生き方」も変っていったかというと、藤原惺窩はあくまでもその入り口の入り口に止まっていた。彼にも「天道」とかいう発想は生れていたけれど、ヒエラルキー体制にいくには、彼の弟子、林羅山を待つことになる、そんなところではないかと思います。それというのも彼の代までは、上記のとおり、同じ儒教といっても仏教的要素も極めて強い。むしろ陽明学に近いとも言えました。
『日本思想体系』中の石田一良先生の紹介によりますと、
「室町時代の中期の五山の禅僧岐陽方秀は、禅儒不二を説いた。岐陽は、(『大学』の)『明徳』を説いて、……『みな明徳を天下に明らかにするものなり。わが仏大聖人もまたこれを大亀氏に伝へ、……数伝して以て達磨氏に達す。始め震丹より来りて以て恵日に至り、光明盛大なり。みな一心を下世に伝ふる者なり。その伝ふるところはその名を異にすることあるも、その実は一なり。故にいはく、「明徳は一心の用、一心は明徳の体なり」』『君子、孜々吃々として力を用ふること久しうして、一旦豁然として優に至善の域に入れば、則ち一心の全体大用、明らかならざることなし。ここにおいてか、父母に施せば則ちこれを孝といひ、兄弟に用ふればこれを友といひ、閭里郷党朋友親族の際に行へば則ちこれを忠といふ。……岐陽は、禅でいう『本分の田地』=心を体とし、儒教でいう『明徳』=仁義礼智信の五常を用として――禅のうちに儒教を取り入れて――心が心外にあらわれて人倫的秩序をそこに実現すると説いたのである。……陽明・兆恩の心学を髣髴させるものがある。(岐陽の死一四二四年が陽明の生誕一四七二年前であることに注意されたい。)」と。
つまりは、日本中世の禅僧は、王陽明の発想より前に実質的な陽明学の発想を持っていた、とも言えるわけで、「誰が先」などと言って誇る必要もありませんし、「世界人類の求めるところは同じ」と考えれば驚くにも値しませんが、とにかく中世儒教(仏教と習合)の「よい話し」ではないでしょうか。
そして、『葉隠』では姜沆も一時歩を留めた伊予大洲の人(元はやはり播州)、盤珪禅師が「不生の仏心」と「明徳」の一致をしきりに述べていたという点も面白いところです。
