葉隠の諸相 ~山本常朝の友人と、幕末の日本~ 嘉 村 孝
山本常朝のごく近い友人に深江信渓がいます。彼は、安玄という元々は武士であったお坊さんですが、一六六三年、楠正成・正行父子の桜井の駅の別れの木像を作ったことで有名です。以後、楠公父子を祀る祭が行なわれていたのですが、一旦それは途切れてしまいました。
それが幕末の一八五〇年、いわゆる「義祭同盟」というものを生んだことはご存知の方も多いと思います。佐賀藩では枝吉神陽、副島種臣の兄弟をはじめ、大木、江藤や大隈、島などがこれに加わったと言われ、私も本丸歴史館でその巻物を拝見したことがあります。佐賀藩の幕末におけるいわゆる尊攘運動に大きな影響を及ぼしたと言えるでしょう。
そのため、この義祭同盟や、祭祀を推進した枝吉神陽らは、明治維新のきっかけを作った人として大いに称揚されているわけですが、ちょっと見方を変えてみる必要もあるのではないかと思います。
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幕末のペリー来航以来、安政の日米修好通商条約以後のいわゆる尊攘運動は、京都において様々な殺戮事件を起こしました。京都の鴨川と並行して流れる高瀬川沿いの木屋町通りといえば、そのすぐ西に池田屋があり、安政、万延、文久、元治と、幕末史に現れ、あるいは現れない数多くの殺傷事件があったところです。これは正に、尊王攘夷という義祭同盟と元を同じくする発想の一つの観念と、それまでの体制を法治によって押さえようという意思との極端なぶつかり合いであると私は思っています。
先にご紹介したこともあるドイツの考古学者シュリーマンの報告などを見ますと、取り締まる方の侍は、正に法治主義の体現者としての立派な公務員であったと思われるのです。
もっとも、上記の義祭同盟に参加した我が佐賀藩の人々が、そんなに熱心に殺戮事件に参加したかというと、そうではありませんでした。私はむしろ佐賀藩はそうしたことに参加しなかったからこそ良かったのだ、と考えるべきではないかと思っています。それというのも、当時の北方の情勢に改めて目を開かざるを得ないからです。
現在、サハリンのエネルギー資源開発により、かの地の経済は大いに上向いているようですが、徳島の人である岡本監輔は、ロシアの南下が激しい文久、元治のちょうどその頃、京都なんぞで視野の狭い争いをしている時ではないと、樺太・蝦夷地を踏査。彼らの努力もむなしく人や物が北地で不足していた日本は、ロシア当局とのぶつかり合いも引き下がらざるを得ず、結局は、樺太・千島交換条約にまでこぎつけるのがやっとだったというわけ。
こういう人々からみたら、京都の政局は何と歯がゆかったことでしょう。もちろん、それ以前の田沼、松平のころを含めて、幕府に人員を北にさく余裕があったなら、現在の日本も少し違った形になっていたでしょう(ここの田沼意次と松平定信の違いが大事)。
佐賀藩の場合、尊攘派の志士をコントロールしていたのは、鍋島閑叟公であったようですね。しかして、彼のことも、例えば「元治夢物語」等にその名は出てきますが、そんなに大きな動きをしていたわけではありません。むしろ大きな動きをせずにじっと情勢を見守りつつ、最後に巨大な軍事力を見せつけて明治維新の立役者に躍り出たという辺りが本当でしょう。また、大隈も元は義祭同盟ですが、蘭学、英学を勉強して、来るべき日に備えました。更に、むしろ島義勇などは閑叟公に命ぜられて、早々と北方の探検を始め、「入北記」という本も書いています。今日の札幌という町を作ったことなど有名ですし、佐賀藩の志士たちは薩摩や長州とはちょっと変わったむしろ遠大な発想も持っていたし、藩主自身が、そのような考えを持って幕末の政局に対処していたことこそ本当はより価値のあることではなかったのかと思われる次第です。
つまり、常朝さんのお友達とは一味違っていたというわけです。
