島原半島と葉隠

葉隠の諸相 ―島原半島と葉隠―                嘉 村  孝

 今年の若楠会郷土訪問は、佐賀大学を訪問し、シンポジウム「佐賀の観光資源:幕末佐賀を紐解く」に参加しました。このことについては、当日参加された本告英雄様が別にご報告されたとおりです。

 当日の佐大のテーマは、大きく言えば佐賀の観光でしたが、私は、まずは「佐賀の・・・とは一体何か」を考える必要があると思います。

 明治政府が作った佐賀というコンセプトだけではなく、その外側にも佐賀がありますし、あるいは内側に佐賀藩ではない勢力があったことも勿論です。要は、佐賀も、当然ながら東西南北に極めて大きな広がりを持ち、むしろ諸外国との関係を持っています。北の朝鮮半島や中国、西の西欧との関係は勿論ですが、今回は、南を探ってみたいものと考え、翌日、島原半島に行きました。勿論葉隠と関わりがあることにもよります。

 十月三一日早朝、我々は長洲からフェリーに乗り、多比良に上陸、西に進んで、神代鍋島家の邸宅を訪ねました。ここは鍋島直茂の兄の子孫が代々受け継いだところで、わかりやすく言えば、いわゆる平山城です。北面には有明海を臨み、東には堀をめぐらせ、西には山を背負った立派な館であり、周囲の武家屋敷を含めた石垣は、鍋島藩の“出店”である長崎・深堀などの武家屋敷と比べても勝るとも劣らない立派なものです。多分全国的に見ても素晴らしいものの一つでしょう。

 その後我々は、龍造寺隆信が討ち死にした沖田畷のそばを通り、島原城、そして原城へと向かいました。原城に着く前、バスの右側には天正少年使節が学んだ有馬のセミナリオ跡とともに、数基のキリシタン墓が見えました。この辺り南島原市は数多くのキリシタンの墓が出土することで有名です。かまぼこ型のそれは西欧と顕著な共通性を示しており、ポルトガル語や十字架などが刻まれています。イエズス会の東方巡察使ヴァリニャーノは「日本巡察記」の中で、「この地方の領主はドン・プロタジオ有馬殿と称し、前述のようにドン・パルトロメの甥にあたる。両者の地は彼らの親族で異教徒であり諫早の国衆である一領主の土地によって間を隔てられている。彼は常に前記二領主及び我らの聖なる信仰の大敵であった。したがって、一方から他方へは海路に拠らなければ安全に行くことができない。将来、もし我らの主なる神がこの敵を除去して領土を改宗させ給うたならば、当地方の全キリスト教徒は極めて強力確固たるものとなるであろう。だが、現在のところでは、この敵のためと四年前に龍造寺と称するこの国の一領主に権力が帰したために甚だ危険に晒されている。この龍造寺は全肥前の支配者となり、有馬や大村の両領主も彼に臣従したようになっている。危険に晒されているというのは、龍造寺の意図が全領主の絶対的な支配者となることにあり、それを達成する方法を探していることが明白であるからである。(松田毅一他訳)」などとあるとおり、当時ヴァリニャーノは龍造寺隆信の支配する佐賀や島原半島北部と諫早そして長崎、野母半島先端の深堀らによってこの有馬や大村が挟撃され、海路を使わなければ行き来も出来ないといったことを述べています。

このような形勢が、大村純忠をして長崎をイエズス会に寄進せしめ、のち秀吉によってそれが公領とされ、葉隠に記される長崎喧嘩へとつながっていくわけです。まるで風が吹けば桶屋が儲かるような話しではありますが、要は、この島原半島と、更に西欧と佐賀とは大きなつながりがあるわけです。

特に島原半島先端の口之津は名前のとおり、有明海の湾口に当ります。水深の浅い有明海は最近に至るまで、三池炭鉱や杵島炭鉱の石炭を運ぶについても小型の船で口之津まで数珠つなぎに運ばざるを得ず、そこから上海航路まで出ていましたし、あるいは、からゆきさんの出発地点ともなりました。そのようなわけですから、ポルトガルの船は口之津に入港し、その西隣にある加津佐では、いわゆる「加津佐版」と呼ばれる金属活字による数多くの貴重なキリシタン版が印刷されたりしました。口之津港のたたずまいは、我々の思いを西欧にまで駆り立てるに十分でした、

 こうして、北や西だけではなく、佐賀は南とも大いにつながり、その南の勢力への押さえとして神代鍋島家もある、こういったことは佐賀の観光について考えるについても、極めて重要な視点ではないでしょうか。

 本告様の報告に併せて、葉隠にいささか引っ掛けての島原半島漫遊記としました。

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