徳川家康と葉隠

葉隠の諸相 「徳川家康と葉隠」                       嘉 村  孝

葉隠の中には、徳川家康がたびたび登場します。その中でも私が特に面白いと思うのは、「権現様一枚紙の事」というもので、ある時、家康が御仏参のとき、紙を腰に挟んで手水を使おうとしたら風で飛んでいったのを、家康が走ってその紙を取ったのを見て、一座の者がくすくすと笑ったのに対し、家康は手を拭いた濡れ紙をその中に投げ捨て、「我等が天下はこれにて取りたり。」と大声で言ったというシーンです。これについて、家康の家来である板倉重宗の菩提寺長圓寺の方丈である月舟は心を打たれ、「月舟一枚紙の工夫」と呼ばれる偈(げ)を書いたそうです。

この家康の行動について、私としては、子供の時から散々な苦労をしてきた家康が、秀吉との軋轢を乗り越え、かつ、関が原に勝利し、更には大坂冬の陣・夏の陣によって豊臣家を滅ぼして、将軍職を世襲させるまでの様々な苦労の挙句の成功は、なまじなことでは出来ないわけで、いわばそういうことを踏まえて、こういう行動をしたのではないかと思います。

しかるに月舟の偈のほうは、一種の禅の公案の如きものになっており、家康の行動とは実はマッチしないかもしれませんが、なかなかに面白いもの、と言えると思います。

もう一つ家康で思い当たる話は、その死にあたって、「東国は全部手に入ったけども、西国は心もとないので」というわけで、罪人を斬らせて、その血のついた刀を久能山のご神体にすることを遺言したという話しです。また、死ぬときは寝ながら弓で天井を射抜いて死んだというような話しも出ていました。家康という人はまさに根性の据わった人物だったという感じです。この話しは、数多くの史料から編まれた「徳川十五代史」などによると、他の本にも載っている有名な話しのようです。

さて、家康が何故こんなに沢山葉隠に登場するのかということですが、当時の幕閣を構成していた重要な人物として板倉重宗や重昌がいます。重昌は後に島原の乱で討ち死にしてしまいますが、そもそもこの板倉家自体が、京都所司代を彼らの父勝重も務めており、徳川家を本質的に支える重要な家系です。しかも、その菩提寺である三河・長圓寺の住職は肥前武雄生まれの上記月舟が務めていて、月舟には鍋島藩菩提寺の高伝寺の住職になるよう話がありましたが、板倉家の寺も守らねばならないというわけで同じ三河の国にいた、湛然(山本常朝の先生)を推挙し、高伝寺の十一世湛然が誕生したというわけです。ですから、こうして三河系の話しが沢山入ってくるのも、ある意味当然といわねばならないでしょう。

  ところで、家康は上記のとおり、久能山にお宮、つまり東照宮を建てさせたわけですが、この東照宮に祀られるについては、上記の本にもあるとおり、梵舜ら神道系の坊さんの影響も強かったようです。梵舜は、豊臣秀吉の豊国大明神で働いていた人なので、崇伝とともに明神号を推進したわけですが、結局権現ということになり、これは家康の本意には反するというようなことが言われています。しかしいずれにしても、家康は生前からそうしたことについて十分な教養と方針を持っていたということがこのことから分かるわけで、現に吾妻鏡を読破したり貞観政要を読んだり相当な勉強好きであったようです。ですから自らを神様に仕立てあげて一種の全国一統のよりどころにさせようという意図が十分あったのでしょう。もっとも一方では、その戦国武将的な色彩から、軍事道路である東海道の脇の久能山という元々城郭も構えてあったところに東照宮を設けたというわけでしょうか。

  つまり家康には、本来の軍事的な面といわば教養人としての面とが同居している(強いていえば戦国武士の生き方と近世武士道の両面がある)ように思いますが、その教養人としての面は、彼を支えた藤原惺窩、そして林羅山らの儒教の行き着いたところとして、のちに、山崎闇斎らの、会津だけでなく水戸につながる学派を生み出していきました。そしてそれが、実は幕府を将来転覆させる儒教主義の一つの流れを作る源にもなってしまったともいえるわけで、このことについては荻生徂徠が既にその著書「政談」において、指摘しているところでもあります。

何はともあれ二百数十年の平和を保ったのは家康の力が大きかったことは間違いありません。

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