戊辰戦争と唐津

葉隠の諸相 -戊辰戦争と唐津―     嘉 村 孝

今回は、幕末における唐津半の世子、小笠原長行(ながみち)を取り上げてみます。

長行については、『小笠原壱岐守長行』がありますが、滝口康彦さんの書かれた『流離の譜』という小説もあります。

では、なぜ今回これを取り上げたかというと、最近、「明治維新百五十年」や「薩長土肥」云々といったことが言われていますが、その肥前の中も色々と分かれていて、鍋島だけではなくて唐津の小笠原や、鳥栖の宗、天領、そして諫早領などがあるわけです。明治維新期におけるそれら各君主や領民の悩みをつぶさに見てみると、明治維新というものの複雑さ、また、個人である当事者の劇的な生き方なども改めて知ることになり、反省すべき点も見いだされて、将来へのより意味のある取組みにつながっていくのではないかと思ったからです。

まずこの小笠原長行という人ですが、文政五年(一八二二年)五月一一日、唐津藩主小笠原長昌の長男として唐津城で生まれたのですが、二歳で父が亡くなってしまいました。普通であればそのまま跡継ぎになるはずのところ、九州における唐津藩の位置付けは、鍋島、黒田の両藩が各年で行っている長崎警護を譜代大名として更に監視する役を島原藩と交替で荷っていたわけです。そうすると、二歳の殿様ではいわば監軍の仕事など出来ないというわけで、生まれはしたものの、いわゆる廃人という届をされてしまい、唐津藩は養子を迎え、以後四代にわたって、これまた悲劇的なことに、次々と夭折するなどし、幕末においては、かろうじて小笠原長国が藩政をとっていました。

しかして、一六歳のとき江戸の下屋敷に移動し、そこで生育するようになった長行は、土佐の山内容堂や水戸の徳川斉昭、藤田東湖らとも付き合い、その非凡な才能を見出されることになりました。長行自身は一貫した開国派でしたから、斉昭や東湖とは真逆の発想なのですが、いずれにしてもこうした人脈のおかげで、ペリー来航以来の幕末の情勢に関して建白書を提出し、それらが幕府の目に留まって、これは相当な人物だということになり、長行を要職に就けなければならないということになりました。そのため三六歳のとき、自分より二歳年下であった藩主・長国と養子縁組を結んで、漸く世子つまり跡継ぎということになりました。しかし、まだ藩主というわけでありませんから、そう簡単にいかないはずですが、幕末の緊迫した状況のもと、文久二年(一八六二年)七月二一日には奏者番、同年八月一九日に若年寄、九月一一日に老中格、十月には外国御用船取扱いを命じられたというわけで、正にトントン拍子どころではない出世をし、遂には正式の老中になりました。その背後には上記山内容堂などの推挙もあったと言われています。

長行の幕閣における最初の大きな仕事は、文久二年(一八六二年)八月二一日に突発した生麦事件の処理でした。英国は薩摩に対する処罰だけでなく、幕府に対し償金十万ポンドの支払などを要求してきましたが、いわば砲艦外交であり、今でいう東京湾にイギリス船が押しかけてきました。一方では尊王攘夷の声が相当強かったわけですが、長行は反対を押し切って現在の横浜市関内にあった運上所(現在の神奈川県庁に所在)から現金を引っ張り出してこれをイギリス公使館に運び、賠償金を独断で支払ったわけです。更に当時、京都にいわば幽閉状態になっていた将軍家茂を救い出すためともいわれますが、京都の攘夷派に圧力をかけるため、兵千名以上を率いて上京。これらのことによる謹慎の最中、八月一八日の政変によって、長州藩が京都を追われ、一方、それを挽回すべく集結していた尊攘派に対する新撰組の攻撃即ち池田屋事件が起き、更には、それを大きな原因とする禁門の変、そして一回目の長州征伐となりました。藩主の小笠原長国はご先祖が同じである小倉に出兵し、長州藩を攻めたてようとしましたが、寛大な処置で臨んだ征長総督により、話はうやむやにされ、この間に長州藩は奇兵隊が主導権を握って、長行が紀州藩の軍船で広島に赴き、幕府の処分案を伝えようとしましたが、長州はこれを受け取り拒否。そして第二次長州征伐。例の薩長連合のため、長州を叩くことができず、唐津藩兵は門司を守りましたが敗退。九州における幕府の要とも言うべき小倉城については、小倉藩が最後までこれを死守したものの自ら城を焼いて撤退。長行も脱出せざるを得ない事態になりました。ここに、互いに長州に叩かれた小笠原と後の会津という構図が出来上がります(そのため、両者には、いろいろな「ご縁」があります)。

よって、その後の大政奉還は、長行にとっては到底受け入れることができず、彼以下五七名の藩士が脱藩して東北のかつての領地であった棚倉から会津、仙台等々に転戦し、最終的には箱館の五稜郭まで移動しました。しかしこの間に長行は、自らの義理の弟が戦死したことにより意気消沈の状態になったようです。北海道では、「四方のけしきを眺めやるに、雪白ふ降積りて、山のかたち、林のさまなんど、おどろおどろしく我国にはよもあらじと、おもゆるばかりなる」「七重といふ村を過るに、おのれがいろとの(弟)、いぬる(死ぬ)かんな月の末の四日の火、たたかひにここにて討死したるを、寶林庵てふ寺に送りたると聞くものから、そがおきつきにまう(詣)でしに、懐旧の涙とどめあへず、名残のいとをしまれけれど、さてあるべき事ならねば、透々としてたち去りつつ、日くれはつる頃、五稜郭の城のほとりになんたどりつきぬ」「五稜郭の城より西北なる人の住すてし庵になんうつりてける。もとよりすみあらしたるいぶせき家にしあなれば、暁かけてさうじのひまより雪霞なんどの、吹きいるるものから、さむさたへがたくて、いも寝られず、海は少し遠けれどよるよるは浪の音に枕にひびきて物思ふ身は一しほに、こしかた行末の事なんど、おもひ出られて、かの立しら波のよるぞわびしきてふ、いとどあわれぞまさりける」(以上『夢のかごと』)。

そして五稜郭が落城した後、完全に行方をくらまし、実はこっそり江戸にやってきて、松平容保らが許されたことを見届けて初めて世に出て来て、明治二四年まで生き延びたものの、一切明治政府には仕えるということが無かったのです。

私としてはこの時代の具体的な事情を語る本として、例えば、岩波文庫にもある『元治夢物語』などコンパクトなものを時々ひも解くのですが、当時の情勢は、まず幕府の能力としては、火力において諸外国には到底太刀打ちできないお粗末な状況。その中で何とか日本国の体面を保つには、イギリスやフランスの間をバランスよく外交的駆け引きでもって調節し、独立を保っていくということが正解だったのではないかと思います。一方、その『元治夢物語』にもあるとおり、京都の木屋町通りなどは正に辻斬りの横行で相当おかしなことになっていました。しかして例えば鍋島閑叟などはこの本にはほとんど名前が来ません。つまり最後までじっくり見ていたのは鍋島の殿様。幕府の足を引っ張ろうとしていたのは長州など。そして幕府のほうは引っ張られながら一生懸命独立維持に腐心していたと、こんな構図ではなかろうかと思います。その中で元々生まれからして大変だった長行の、精根傾けた行動、何度も蟄居を命ぜられながら再び登場しては頑張り、そして、最後は北海道にまで渡って、小笠原氏という幕府の藩屏として、それに忠節を尽くした姿というのは正に大河ドラマ的な努力の跡と言えるのではないかと思うのです。ちなみに長行の辞世の歌は「夢よ夢 夢てふ夢は夢の夢 浮世は夢の 夢ならぬ夢」でした。

こんなことにも光を当てる明治維新百五十年なら、今流行りのダイバーシティということになるのでは。

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