葉隠の諸相 -明・清の家具と武士の道- 嘉 村 孝
ある香港のお金持ちが、そのコレクションである明、清の家具を上海の博物館に寄贈されました。
この二つの時代の家具は、その形態において武士の道の二つのタイプ、即ち、一般的な「武士道」である儒教をバックに置くそれと、葉隠のように仏教をバックに置くそれと、極めてパラレルであると思います。
まず、明代の家具は、南方の堅い木を用い、非常にスリムかつシャープなものです。飾り気がなく、極くシンプルと言ってよいかもしれません。まるで氷の刃(やいば)のような日本刀の鋭さがあります。儒教の持つ階層性に極めて近いものです。
一方、清の家具はゴテゴテして装飾が多く、表面には細かな彫刻が沢山施されており、中国周辺国において、仏教説話などが寺院等に飾られていることにもつながっていくのかもしれません。北京の故宮の中にある調度類で我々の目に入るものは、皆そういった物です。つまりあそこは、枠組みは明で中身が清ということになるでしょう。
儒教をバックにした会津武士道の典型的な歌は「なよ竹の風にまかする身ながらもたわまぬ節はありとこそ聞け」。これは前者であり、葉隠の典型的な歌「慈悲の目ににくしと思ふ人あらじ、科のあるをばなをもあわれめ」、これが後者です。
こんなふうに、家具の違いと日本の武士道とが何故結びつくのか(勿論そんなことを言っている人は私くらいかもしれませんが)。それは要は、一六四四年の明の崩壊と、それにかかわる文化の日本への移入、それによって、極めてシャープな、上記のとおりの氷の刃の実質を持った、特に儒教の考え方が日本に入り込んできた、即ちそれが士道として結実したり、その他の文化になっていったことによるのではないかと思っています。
それに対し、土着の武士道(こちらの方が本来の武士道で、水戸や会津は士道)である葉隠は、中世以来の仏教を背負っていた。一方、残された中国では、北方の清によって仏教文化が支配した。
ですから、このような例は、実は、家具だけではありません。よく対照される桂離宮と東照宮にもこの違いが見て取れないでしょうか。武士の道の違いも、そうした文化の違いの中の1つに過ぎないのではないかとさえ思っています。
ところで、家具といえば、佐賀県の隣の大川市が日本一の生産量を誇るわけですが、ここを調べてみるのも面白くて、元はと言えば室町時代にまで遡るようですが、特に江戸時代には、末期において、田ノ上嘉作によって長崎における中国、あるいはオランダの家具の勉強が加わり、新機軸が開かれたといいます。そうしたことを考えると、家具というものがやはり極めて国際性を持ったものであるということがいえるのではないかと思っています。
一方、トロイの遺跡で有名なシュリーマンは、幕末の日本に滞在した際のことを本に書いていて、その中で、日本には家具はない、とさえ言っています。しかし、大川ではやはり生産されていたのでしょうし、むしろシュリーマンは、日本の座敷に通され、正に明(みん)的なスッキリした世界しか見なかった(明では、座敷には、ほとんど家具らしいものがない)のかも、などとも思います。そんなことを考えていると、高伝寺の仏殿などについても、色々な考えが浮かんで来そうです。
