葉隠の諸相 ~有明海とオランダあれこれ~ 嘉 村 孝
先日、久々に嬉野市の茶業の社長さんにお会いしたところ、昔のご縁で、オランダのアムステルダムに行き、大いに茶業を宣伝してくるのだというお話しでした。
私も数年前にアムステルダムの博物館に行った折、数々の有田焼が俵に詰めて置いてあったのには感動しました。その有田焼の皿の上には「VOC」のオランダ東インド会社のマークが載っており、これまた佐賀や有田の博物館で見たものと勿論一緒です。「O」は英語の「E」に相当し、東インド会社の「東」を表すそうですが、オーストリアやオロス(ロシア)など東方諸国との関わりも思い出されて、大航海時代の南海貿易だけではなく、北方草原のステップ貿易のことも思い出されます。
そして、その博物館で私がもっと驚いたのは、例のオランダの干拓の様子を説明したジオラマでした。勿論オランダはご承知のとおりの干拓によってできた国であり、そのやり方は満潮と干潮の高低差を利用し、沢山の杭を立ててその間に粗朶(そだ)のようなものを横に渡し、満潮時に海水が泥を運んできて、それが次々に溜まって一定の高さになっていくというものです。
そのからんだものが「搦み」というのは皆様ご承知のとおりで、佐賀近辺で大きなものでは大授搦、新しいものでは昭和搦などがあって、その上を自動車道路が通っているというのは我々佐賀県人には周知のことですね。オランダのダム(堤防)の上を走る車は見たことがありますが、その下部構造と成り立ちが日本とそっくりなのには率直に言って驚きました。
しかも、これまたつい先日、旧福富町の福富会に伺い、例の昭和二八年の水害の写真を見せていただくと、コンクリートの護岸の下の土が全部流されて、赤松の柱の上に護岸が乗っている写真がありました。大変お気の毒な写真といわねばなりませんが、ここでも「ああやっぱり」と思いました。
こうして佐賀の有明海とオランダの干拓のやり方がうり二つである理由については、私は全く研究者でも何でもありませんので分かりません。明治以降にオランダ人がやってきて、安積疎水など種々指導されたことは聞いていますが、江戸時代以前については、歴史の先生に聞いてみても私が聞いた限りではご存知の方はいませんでした。
ただ、オランダと佐賀県とは、上記の焼き物だけではなく、例えば葉隠にも出てくる島原の乱ではオランダが原城に籠った一揆勢に対して軍艦から大砲を撃ち、その弾が現在も原城の周囲から発掘されるといったようなわけで、様々な関わりがあります。
そのような意味で、はたしてどうなのかと思っているオランダ商館長の一人がマクシミリアン・ル・メールです。彼は商館長としては一六四一年の二月から一〇月までの短期間務めただけですが、それ以前から平戸に滞在し、また、商館が出島に移転するについてのアレンジメントを行いました。
しかも彼はその後は台湾に行って、台湾の行政長官を務めたのですが、台湾には彼の名を取った干拓地があるそうです。当時の台湾は正にオランダの植民地であって数々の法令も発出されており、現在それらは数センチの厚さにもなる本として出版されています。また、台湾には多数の干拓地があります。
そんなことを考えていると、当時のオランダの干拓の技法は、台湾はもとより日本においてもすごくポピュラーなものになっていたのかもしれません。彼より前にリーフデ号でやってきたヤン・ヨーステンとかも候補者でしょうか。勿論その逆の話もあり得ますが、上記のとおりその辺りは私としては全く研究していないので、とりあえず自分の宿題にします。
いずれにしても、佐賀とオランダとが数百年もの昔からこういった土木技術においても共通のものを持っていたということは、大変興味の持たれることではないでしょうか。
