東京と佐賀 ―櫛田宮の話―

東京と佐賀 ―櫛田宮の話―           嘉 村 孝

 今回は「櫛田宮の話」として、神崎荘のいわば総鎮守である櫛田宮を取り上げます。それというのも、葉隠の中に出てくる執行越前守がこの神社と相当な関係があるからです。

 まず、神崎荘ですが、この荘園は極めて有名な荘園です。以前佐賀県にあった神埼郡農業協同組合は、その事業量が佐賀県一であったように、ここは農業の本場で、現在も茄子や苺などの特産品が沢山あります。その中心には例の吉野ケ里遺跡も位置します。

そもそも神崎荘は、肥前風土記によれば、この辺りに荒ぶる神がいたところ、景行天皇の巡幸によりおさまったので、「神幸」となったという話があり、その荒ぶる神自体がこの神社だという説もあれば、豊次姫の櫛が落ちたところに須佐之男命とともに神社を作ったという話もあったり(江戸時代の「肥前古跡縁起」)、要は、極めて古いものの、よくは分かりません。

しかして、ここには鳥羽院や政所という地名も残っているとおり、平安時代には院の領地となり、更に平家が勢力を持つについても重要な土地でした(坂本太郎先生や五味文彦先生らが書かれているとおり)。

一一三三年(長承二年)の宋船の渡来の時、平清盛の父平忠盛が院宣をいわば偽造ないしは虚偽記入して、いわゆる私貿易を始めた場所とも言われています(「長秋記」)。もっともこの宋船が渡来した場所については、博多だという説もありますが、実はこの櫛田宮そのものが、博多の櫛田神社即ち祇園山笠で有名な櫛田神社の本家だという話もあるので、宋船が佐賀、福岡のどちらに来たのかは分からないとも言われています。

いずれにしても、櫛田神社はその後も長く神崎荘の総鎮守として、また、旧国宝を蔵する近くの東明寺と習合していたともいわれています。

平家が滅んだ後は、鎌倉の三浦、その後の北条、更に江上一族などがこの辺りを事実上領有してきました。櫛田神社の社家あるいは深く関わった家は、執行家や本告家だったようで、そのことは「肥前国神崎荘資料」の中にも見えています。

いずれにしても、神崎荘は、冒頭述べたとおり農業の巨大な産地であったため、その富が北にある坂本峠を越えて、安徳(安徳天皇が滞在されたところ)、那珂川を越え、正に福岡の櫛田神社にまでつながり、ある本によれば、こうした農産物が日本の北で算出される鉱物と交換されて、それらが平清盛らによる日宋貿易の手段として使われ、京都の三十三間堂や厳島神社などもその富の集積物とも言われています。

そのような流れですから、戦国時代には、この辺りは武藤氏、つまり少弐氏の最後の拠り所となり、これを奉ずる江上氏の根拠地となって、現在も城山があります。そして、その江上氏の家来であったのが執行氏ですが、越前守は、江上、少弐と、龍造寺、鍋島との確執を調整する役目を担い、最後は龍造寺家に仕え、葉隠によると、龍造寺隆信が島原で討ち死にをした時にも、執行越前守は、羽織袴で討ち死にをしたとされています。そして、その子孫は、佐賀藩において着座という重要な位置を占めました。

彼らのことを、先ほどの城山にちなみ、また、そのそばを流れる城原川から城原衆と言っていますが、この城原衆は、その後の江戸時代は、ぐっと南に下った現在の佐賀市蓮池町に移動し、蓮池町の北には城原町、神埼町があります。南には城内と言っていわゆる侍が住んでいたのですが、実際のところ、北側に住んだその城原町や神埼町の人たちも、その先祖は上記のとおり城原衆であって、江戸時代の身分関係構築により、町人や農民の扱いを受けたかもしれませんが、本来は中世的な武士だったということではないでしょうか。そして、執行家や本告家が元々京都と近いと言われることから、博多祇園山笠で有名な祇園さんつまり八坂神社が城原町、神埼町の一番西側にあって、祇園祭も行われています。もちろん須佐之男命にも関わり深いわけです。

更に、この櫛田神社については、元寇の時、神埼の櫛田神社から博多の櫛田神社に剣が渡され、それによって元寇を退散させた話や、一三三三年の北条氏滅亡に先立つ菊池一族の蜂起の時、菊池武時がそれを止めようとした櫛田神社に矢を放ち、大蛇が死んだ話などなど(「太平記」に載っています)面白い話が沢山ありますが、時間の都合上、今回は割愛します。

なお、現在の執行一族の墓は、龍造寺隆信がかつて僧をしていた佐賀市鬼丸の寶琳院にあります。

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