葉隠の諸相 ~松浦佐用姫伝説と武士道(?)~ 嘉 村 孝
今回なぜこれを取上げたかと言いますと、東京佐賀県人会若楠会の本年度の旅行が唐津、伊万里方面であったことから、それにちなむテーマとして取上げたものです。武士道との関係なんて有り得ないという意見もあるかもしれませんが、そうでもないところがミソです。
まず、松浦佐用姫について、唐津地方で言われているのは「大伴狭手彦が朝廷の命を受け、任那・百済を救援するため松浦の地にやってきた。しばらく松浦の地に軍をとどめている間に、土地の長者の娘の『佐用姫』と知り合い夫婦の契りを結んだ。やがて狭手彦出船の日、別離の悲しみに耐えかねた佐用姫は鏡山へ駆け登り、領巾を必死に打ち振り、鏡山を駆け下り栗川(=松浦川)を渡って海沿いに、やがて加部島(=呼子町)の天童岳の頂きに達したが、遂に舟が見えなくなると、その場にうずくまり、七日七晩泣き続けてとうとう田島神社にある石になってしまった。」という話しのようです。
ところが、その元になった日本書紀では、大伴狭手彦が新羅に行って敵を討ったという話しが数行載っているだけで、松浦佐用姫の話は全く出てきません。一方、肥前風土記には松浦佐用姫の話が出てきますが、佐用姫は狭手彦が去った後、そっくりの若人に出会い、再び仲良し状態になりますが、結局のところそれは蛇の化身で鏡山に今もある池で死んでいたということになっています。
更に、若干時代が下ると思われる万葉集には、松浦佐用姫にかかる様々な歌が載っています。そのような流れですので、上記のような「領巾振る山」、「最後は石になった」という話しはどうも鎌倉時代以降だという説が強いようです。
ところで、その石の名前を「望夫石」と言いますが、望夫石は田島神社にのみあるわけではありません。まず中国を見ると中国じゅうに望夫石があって、香港の南の上川島(フランシスコ・ザビエルが死んだところ)には、夫に相当する石を、子供を背負った妻が望む形の望夫石があります。また、河北省には孟姜女という人が秦の始皇帝により、夫を万里の長城の建設のためにさらわれて、それを追い求める孟姜女が最後は石になったという話しがあります。この話しなどは極めて儒教性が強いので、夫との夫婦愛あるいは夫への思慕を極限まで突き詰めたところ、石になってしまった形といって良いかもしれません。つまり、こうした奥には、「夫婦相和す」儒教があるようです。
そうすると、特に儒教が強いと言われている韓国ではどうかと言えば、正にあの国には、夫が日本に行くのでその後を追い求めた女の人がとうとう石になったという、松浦作用姫とは真逆の話があるようで、「望夫石」という映画にまでなっています。これら様々な望夫石、あるいは松浦作用姫と同じような話しを紐解き、あるいは関係を考えてみるとなかなか面白いと思います。
特に、こうして徐々に成立してきた儒教主義が、後の「武士道」の大きな骨格を作ることになったことを思うと、佐用姫伝説の変遷も、武士道と全く無関係とはいえない気がしてくるのです。
ともあれ、佐賀県の唐津地方あるいは伊万里地方が(伊万里にも松浦佐用姫の伝説があるそうです)極めて大陸と近い関係にあるということはこうした話しからも間違いないことだと思います。
