葉隠の諸相 ―武雄訪問から思う蘭癖の話― 嘉 村 孝
先日の東京佐賀県人会青年部・若楠会の「郷土訪問」では、武雄市を訪れました。全国的な話題となった図書館の一角には、「蘭癖大名」鍋島茂義にちなむ展示も行われていました。
「蘭癖大名」というと西洋かぶれという悪口に出た言葉のようですが、最近では開明的な君主として、大いに前向きな扱いとなっています。
しかして、茂義の位置づけを確認するためにはむしろ日本全体の西洋との関わりを押さえておかなければならないと思う次第です。これについては、中国を通じての西洋との関わりも勿論あるわけで、西川如見の「華夷通商考」などを見ますと、同書には一六〇〇年代末において、正に世界中の情報が網羅されており、鎖国以降と言いながらも相当な知識を持った人がいたことが分かります。そのことは一七〇〇年代に入ってから宣教師シドッチから情報を仕入れた新井白石の「西洋紀聞」においても言えることで、その後徳川吉宗による蘭書解禁があってから更にこの傾向が強まりました。また、田沼意次の時代には北海道などの開発が進められ、北への関心も高まっていきました。
ここで改めて南と北とで考えてみますと、まず、南からの西洋との関わりの最も早い例としては鹿児島に生れて、フランシスコ・ザビエルとともにインドのゴアまで行き、更に最終的にはポルトガルのコインブラで客死したベルナルド(洗礼名)が挙げられます。また、天正少年使節の後も相当な人々がヨーロッパに渡っているようです。一方、北との関わりは極めて面白いものがあります。北とはすなわちロシアですが、これは船の難破という形で起きました。難破は日本列島の北から南まで様々なケースがあって、大阪の伝兵衛は一六九五年(元禄八年)にカムチャッカに漂着。日本語教育にたずさわり、薩摩のゴンザは一七三六年前にロシアに漂着して、一七三八年に辞書の編纂まで行いました。
より有名なのは一七八二年、十七人でアリューシャン列島まで漂流し、最終的には三人が日本に戻ってきた大黒屋光太夫の例があります。彼の場合はアリューシャン列島からカムチャッカを越え、オホーツク、イルクーツク、エカテリンブルク、そしてサンクトペテルブルクまで行ってエカテリーナ二世に帰国を願い出で、それが叶えられたわけです。しかも、十七人のうちの他の二人はとうとうロシア正教に改宗して当時イルクーツクにあった日本語学校の先生にもなったというわけで、相当古い時代からヨーロッパロシアとの関わりがありました。
このような情勢であったところ、佐賀藩がヨーロッパに目を開くきっかけになったのは一八〇八年のフェートン号事件です。勿論佐賀藩と黒田藩とは長崎の警備を担当していたのでそれなりに情報は入ったわけですが、この事件の時には正に油断をしていたために大変な目にあいました。
それはご承知のとおりイギリスの軍艦が当時世界で唯一オランダ国旗を掲げていた出島にオランダ船を装って侵入し、手薄な防備を突いて食糧や水の供給を強要して去って行ったという話で、長崎奉行の松平康英は切腹、鍋島閑叟の父斉直も閉門を命じられました。つまり、ここが佐賀藩の、目を覚まさせられた大きなきっかけで、その後、長崎の防備の責任者になったのが武雄の鍋島茂義。そして、閑叟と茂義とは義理の兄弟という関係です。こうして、武雄だけでなく本藩も蘭癖の度が高まりました
茂義らは長崎町年寄の高島秋帆に入門するなどして先進の技術を取り入れたのですが、広く蘭癖大名一般という観点から見ると、やはり薩摩の一頭地を抜いた行動を評価せざるを得ません。薩摩の藩主島津重豪は、一七五五年、わずか十一歳で藩主の座についたわけですが、その頃、何度もオランダ人に出会い、その後勉強してオランダ語がペラペラになり、様々な情報を仕入れることになりました。彼らがすごいのはその息子の中津藩主奥平昌高、黒田藩主黒田長溥などもみなオランダ語が喋れたということで、一方葉隠(一七一六年)というより、山本常朝さんの説くところには少々科学性に問題のある話しもあり、葉隠の三、四〇年後にはこういう大名が現れているということこそ大事で、葉隠の内容の「評価」にもつながってくる問題かと思います。
そのような意味で武雄の蘭癖大名をヨイショしすぎるのも問題かと思う一方、幕末の行動は見事なもので、この辺りを正確に把握し、またその良さを打ち出していくということが良いことではないかと思います。
