満蒙の独立運動と川島浪速・芳子、そして武士道

葉隠の諸相

―満蒙の独立運動と川島浪速・芳子、そして武士道―

嘉村孝

満蒙は旧満州とモンゴル・蒙古とをまとめた言葉です(ただし、日本人が呼ぶそれは、旧満州の西側。所謂東部内蒙であることに注意。)。中国が一言で言えば農業国家であるのに対して、この二つは、互いに動物を相手とする人々の生活です。「満」と「蒙」との大きな違いは、満州族に代表されるツングース系の方は、一か所に定住して獲物を求め、狩猟をする民族。モンゴルの場合は家畜を追って遊牧をする民族ということです。

満蒙には、数多くの少数民族がおり独特の生活があります。旧満州国陸軍事務官・川瀬偲郎『満蒙の風俗習慣』によると、何か所にも首狩りの事例が出てきたりします。この首狩りで、パッと思い浮かぶのは、台湾やボルネオ、ニューギニアなどの話しですが、北方や中国の辺境にもこの習慣は多く(フィル・ビリ=グズリー『匪賊』)、また日本の侍自体が一種の首狩りをしていたことは、源義家の話などにもでてきます。ですから、それこそ有史以前からの人類の伝統の一つなのかもしれません。

時代を下らせて一六〇〇年代辺りを考えますと、北方のロシアではピョートル大帝(一六七二~一七二五)というすごい人が出て、ロシア民族は毛皮を得るためどんどん東に進出してきました。一番東はカリフォルニアに到達し、そこには、クレムリン、すなわち木でできたとりでがあったと言われます。そのようなロシアと当時の中国、即ち清とは、一六八九年にネルチンスク条約を締結して、現在の中国の東北部よりも遥かに北に国境線を定めました。『葉隠』(一七一九年)より、ずっと昔の話しです。

一方、モンゴル方面から南へのロシアの進出、あるいは通商があったので、ここの境界を定めなければならないということで締結されたのが一七二八年のキャプタ条約です。しかるに清の力が弱まってくると、一八五八年アイグン条約を結び、アムール川が境となりました。そして更に決定的なのは、一八六〇年、現在の沿海州をロシアに取られてしまったということです(北京条約)。ちなみに、この時のロシアの船は日本の函館から出港しています。

そもそも中国の場合、諸外国とこのような条約を結ぶ、つまり対等な関係にはないのだという基本的な発想がありました。冊封体制という身分秩序の体制です。それが条約という形で一種の契約を結ぶようになったということであり、やはり世界の常識にはかなわなくなったということでしょう。これも、法律でいう「身分から契約へ(ヘンリー・メーン)」です。

そして、こうして清朝の力が弱まってきて起きたのが、一九一一年の辛亥革命であり、その後第一次世界大戦が起き、アメリカのウィルソン大統領のいう「民族自決」というようなことも広まって、第一次、第二次の満蒙の独立運動が起きたと言われます。

この中で有名な人が、川島浪速(なにわ)という人です。川島浪速は、その前の義和団事件(一九〇〇年)等々において、現在の北京にある故宮を列国から守ってあげたことから、清朝の皇族・粛親王から絶大なる信頼を受けました。粛親王は、この革命で北京を脱出して旅順に移動し、粛親王府は現在も残っています。そして、そのような粛親王による川島への厚い信頼が、粛親王と川島とが義理の兄弟の誓いを行ったこと、自分の子どもである金璧輝さんを川島の養女にする(芳子さん)ということが行われたわけです。芳子さんは、赤羽に住んでいた川島の自宅に住み、更にその出身地である長野県の松本に移動して女学校に通っていました。当時の写真が何枚も残り、馬に乗って通う姿などが写っています。

しかし、この粛親王による満蒙独立は成功することなく粛親王は亡くなり、その後一九三一年(昭和六年)、日本の関東軍が満州事変を起こしました。そして満州国ができ、清朝の溥儀が最初は執政、そして皇帝になりました。

そういう流れですが、川島の伝記『川島浪速翁』を読んでみると、彼は「武士道」というものに非常に関心があったようで、その影響か川島芳子さんも何首もの「武士道」を詠みこんだ歌を作っています。

ではその「武士道」はどんな武士道なのかと見てみると、川島が昭和一〇年、『日本及日本人之道』で述べるのによると、「欺る最高最美の道徳精神を、世界人類の上に施し行はせらるるのが即ち皇道で、これを翼賛し奉るのが臣道である。日本民族は昔 天照大神の下に、八百萬神として、至誠純忠の心を以て仕へまつった者が、我々の祖先である。即ち吾々国民は此の祖先の精神を継承して来たのである。此の日本民族の遺伝的気質性格の、子々孫々の血管中より、脈々流れ来たものを、昔は日本魂と言ひ、又は武士道とも云うた次第にて、他の民族と著しく風調を異にした、一種独特の気前を云うたるもので、今は之を日本精神と称するのである。」というのであり、少なくとも葉隠的な仏教をバックとした武士道ではない。やはり時代の風潮を受けて、明治維新的あるいは水戸学や復古神道の色の濃い武士道です。

私は、このことと昭和の歴史には大きなつながりがあると思います。というのは、川島と、荒木貞夫大将とは深くかかわり、現に松本の川島芳子記念室には、荒木大将の「皇道日本」の字がかけてあります。ですから昭和の歴史に登場する「皇道派」という陸軍の一派のネーミングの元になっていったように思うのです。

しかして、皇道派といえば佐賀では真崎甚三郎大将ですが、真崎大将は元々佐賀と関係の深い西本願寺の御門徒であって、川島のようなことは言われませんし、私が子供の時に会った真崎少将もこんなことは全く言われていませんでした。この部分が同じ皇道派といわれても、荒木大将と真崎甚三郎大将との違いであり、また、真崎大将が一部誤解されている因をなしているような気がします。

日本の軍部、特に二・二六事件後に主導権を握った所謂統制派の人たちは、中国というものがよくわかっていませんでした。満蒙というものがチベット仏教を信仰しており、その「満州」は「文殊」につながり、清朝皇帝が文殊菩薩の化身として、満州だけでなくモンゴルも新疆もチベットもその版図に入れるという発想があるのに対し、蒋介石らはむしろそれらの土地は不要。本来の明の儒教式の国に戻ろう、そして南京を首都とし、北京は北平とするという考え方でした。にもかかわらず、この統制派の時代になった時には、盧溝橋事件や南京事件を起こして、蔣介石を攻めるということをしてしまい、彼の企図をくじいてしまいました。

その結果、清というコンセプトに乗った現在の中華人民共和国が出来上がっているということです。

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