漫草中の『松樹槿花の境』と東アジアの祖霊祭祀

葉隠の諸相

―漫草中の『松樹槿花の境』と東アジアの祖霊祭祀―

嘉村 孝

 

一般的な葉隠の本には、冒頭に「漫草」という章があります。これは多分、田代 陣基によって付されたものであり、彼が、宝永七年(一七一〇年)に初めて山本常朝に会いにいった経緯が書かれています。それは、本来、殿様が死んだら追い腹をするのが一般であるのに、一六六一年の追腹停止令の後は、もし追腹をすると罰則がある。そこで、「そのほどの身を、方袍圓頂にまかせて、在るともなく、なきにはあらぬ影法師」という、つまり死ぬでもなく生きるでもないお坊さんの生活をしている常朝さんという人がいる。その人に会うということは、いわば散り留まった桜の花に会うようなものだ、といったことが書いてあります。ですから私は、「葉隠」という言葉の命名は、西行の「葉隠れに散りとどまりし花のみぞ忍びし人に逢ふ心地する」、というのでよろしいのじゃないかと思っているのです。漫草の現代訳に関しては、私の『葉隠論考』(創英社)に一応のものが書いてありますが、これが正しいかどうかは分かりません。何しろ、原文自体におかしな所が色々ありますので。

それはそれとして、この漫草の最後は、「所しづかなれば身閑なり。身より心のしづかなるにぞ、松樹槿花の境(さかひ)も、思ひつづけ侍るなり」という文章で締められています。この「松樹槿花の境」とは何かという事なのですが、私の考えとしては、白居易の詩、『白氏文集・巻十五・放言五首』の「松樹千年、終に是れ朽ち、槿花一日、自ら栄を為す」に由来するものと考えます。この詩は、松の木というものも千年も経てば枯れてしまう、槿(むくげ)の花は一日で落ちてしまうけれども素晴らしい花を咲かせる、何れにしても、長ければ良いというものではないし、短くて悪いものでもない。白居易はそれぞれが自分の最大の特徴を発揮すれば、それでよいのだ、という積極的な意味にとらえているようです。

いずれにせよ、日本では松というとおめでたい木の代表なのですが、アジア諸国では必ずしもそうではなくて、以上のような由来があることから、むしろお墓に植える木であるという伝統もあるようです(銚子のあるお寺のお墓や、韓国の宗廟もそうだった気がします)。そんな訳で、常朝という人が生でもなく死でもないという境地にいるということがこの文章のミソかと思います。

そこで、お墓とは一体何か、祖先崇拝とは一体どういうことかという事ですが、これはもちろん相当な、古い歴史を有するものです。特にアジアにおいては、『孝経』の発想から、身体髪膚を子どもに残してくれた父母に対する「孝」の思想より、祖先を崇拝するということが極めて大切なことになりました。中国や韓国では土地の神や穀物の神を祭る社稷壇。祖先を祭る祖霊殿、宗廟の伝統です。

日本では必ずしもはっきりしていないかと思いきや、山崎闇斎らの書いた物の中にもしっかりとそのことが書かれていますし、私はかつて元衆議院議長・清瀬一郎先生のご子息、清瀬信次郎先生の奥様から伊勢神宮の内宮と外宮との関係を指摘され、これは見事に祖霊信仰(内宮)と農業神(外宮)とが一致しているという一つの例であることに目が覚めました。祖霊祭祀は伊勢神宮を含めた東アジア共通のものだ、ということでしょう。

そして、平安時代は、そうした考え方が強く、しかもそれが儒教とも結びついて、親の体を傷つけない土葬が多いわけですが、中世の鎌倉時代等々においては仏教と結びついた火葬も増えて、また、お寺と墓との結びつきについては、中世では、むしろお寺の外に墓がある(寺はあくまでも道場)というのが当たり前でした。

それが、近世、新しい儒教をバックにした武士道が誕生するのと軌を一にして、先日「東京に佐賀を探す旅」で訪問した古賀精里の墓のような儒式・土葬の形が生まれる。更にはそれが現代のお墓につながっていく。つまりは武士道観とお墓には強いつながりがあると言えるでしょう。

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