潮音禅師の気宇壮大性

葉隠の諸相「潮音禅師の気宇壮大性」           嘉  村   孝
 
群馬県南牧村には、我が佐賀県に関係深いお寺があります。黒瀧山不動寺がそれです。
こんにゃくで有名な下仁田から更に長野県方向に山に入り、町から不動寺までは一軒の家もない約六キロのつづら折りの山道です。寺は海抜約八七〇米の位置にあり、背後の山頂からは前橋の県庁が望めるとか。こんなところにあるお寺、一体誰が作ったのでしょうか。
お寺のいわれによりますと、奈良時代、行基によって開創されたという話しですが、近世になって本格的な寺としたのは、延宝元年(一六七三年)、これを中興した小城出身の潮音禅師です。
禅師は、寛永五年(一六二八年)、現在の小城市西川に生まれました。やはり小城市の三岳寺・瑞巌和尚に学んだ後、長崎に行き、崇福寺の道者超元に学び、その後来日した隠元禅師の高弟である木庵禅師の弟子となり、五代将軍徳川綱吉がいまだ館林公であったとき、その帰依を受けました。特にその母桂昌院の信頼を得たことでも有名です。そして、館林(現在は東京都江戸川区)広済寺の開山となりました。
しかるに何といっても有名なのは、一六八一年頃、「先代旧事本紀大成経」といういわば神道書の出版に関わったことです。
潮音禅師は、単に黄檗宗という禅宗の坊さんというだけではありません。いわば仏教にも神道にも通暁した人で、ある意味様々な「問題作」にかかわっています。
先代旧事本紀大成経も偽書と言われており、伊勢神宮の内宮、外宮よりも、同じ伊勢に今もある伊雑宮をより上位とするもので、伊雑宮を太陽とすれば、内宮、外宮は月と星、というようなことが書いてあります。ただし偽書とは言いながら、最近に至っても本が公刊されており、いわば数百年にわたる問題作です。しかし、当然ながら伊勢内宮、外宮の反発を受け、潮音禅師も幕府のお咎めを受けることになりました。
もっとも、桂昌院の帰依を受けていましたから、お咎めはさほどではなく、くじけることなく、先ほどの黒瀧山不動寺を中興し、ここに、宇治の黄檗山万福寺や、長崎、更には中国福建省にもつながる遠大なるお寺を開いたというわけです。
標高九百メートルに近い岸壁に張り付くように建った不動寺は、山門、不動堂、大雄宝殿、開山堂等々立派な伽藍を擁し、しかも、開山堂には鍋島光茂ら佐賀藩主の位牌がしっかりと祀ってあるのには驚きます。最奥に近い開山堂には、京都の宇治・黄檗山万福寺と同じく、チベットにおける意匠と全く同じ飾りもあります。
こうした潮音禅師のもつ気宇壮大性には改めて心を打たれるのです。
実を言いますと、このような潮音禅師の流れと、山本常朝らとは衝突するところがあり、それは葉隠にも載っているのですが、それはそれとして、佐賀から遥かに隔たった群馬県の、しかも山奥に、このように佐賀県と強いつながりのある寺院があることには感動を覚えないわけにはいきません。以前も記したとおり、同じ群馬県の長楽寺には、蓮池藩の鍋島直之寄進にかかる巨大な阿弥陀様があったりすることと合わせて、江戸時代における人々の交通往来の広範性をつくづくと感じさせるものです。
方丈様によりますと、潮音禅師は、この不動寺の奥にそびえる三つの峰に、日、月、星の名前を付したとか。つまり禅師は、お咎めを被った後も、こうして森羅万象がいわば仏性を持ち、我々生きとし生けるものに仏道を説いているという、仏教の根本的な考え方をもとより失うことなく、自らが開いた不動寺の背後の山にもそうしたネーミングをなしていたというわけです。ちなみに、「仏法僧」、「慈悲心」と鳴く鳥まで住んでいるとか。これはやっぱりた者ではないお坊さんだとの思いや切です。
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