葉隠の諸相 -祇園原の戦いと戦国武将たちの法的観念― 嘉村孝
祇園原の戦いというのは、一五四四年に、現在の佐賀県神埼市の日隈山の南側、旧西郷村あたりで起った戦いです。
これについて、江戸時代に成立した『北肥戦誌』、別名『九州治乱記』によると、少弐氏配下の馬場頼周という人が、龍造寺剛忠らを騙して、その一族を根絶やしするような騙し討ちをしたということ、馬場頼周はとんでもない人間、のような書き方になっています。それを引用する『校註葉隠』も同様です。
しかし、一方、その龍造寺方とは反対の、私のふるさと三瀬村あるいは富士町に本拠を置いた、神代勝利らのことを書いた『神代家伝記』では、それとはむしろ逆で、馬場頼周や山内の雄・神代勝利らが反少弐方の龍造寺一党をうまくやっつけたということ、そして、根絶やしのはずだったのが1人生き残り、現在も佐賀市に所在する立派なお寺・宝林院でお坊さんをしていた中納言円月を還俗させ、龍造寺隆信になったいきさつなどが書かれています。つまりこのように、この戦いの評価は大きく分かれています。
では、なぜそのようなことになっているのか、ということを鎌倉以来のことから考えてみたいと思います。
上記『北肥戦誌』の中の少弐家のいわれについて見てみますと、少弐家は本来横浜市の戸塚郷、現在の戸塚区の辺りから源頼朝によって大宰府に送られ、それ以前に安徳天皇を助けた大宰の少弐・原田種直の跡を襲い大宰の少弐となり、その姓も武蔵の藤原氏・武藤から少弐に変えたと言われる名族です。ちょうどその頃、小田原の大友郷から九州に下向したのが大友氏、厚木の辺りから下向して島津庄に土着したのが惟宗氏改め島津氏というわけで、このように、九州を、少弐、大友、島津という三つの大きな武士団が治めるということが、鎌倉時代の法的観念(私の専門〔?〕の行政法で言うならば、任命行為は、講学上の特許)であるということです。
ところが、これに対して、例えば菊池氏などはいわゆる在庁官人でしたから、東からやってきた「東夷め」というわけで、むしろ南朝方につき、激しく抵抗するということになった、と本に書かれています。
時代は下って、南北朝時代になりますと、九州はいわゆる宮方(南朝)と武家方(北朝)とに分かれて激しく争うことになりました。
その中でも法的観念が強い意義を持っていたと言える例が、例えば一三七五年に起きた水島の変です。これは、足利氏の一族である今川了俊が、九州全体を支配していた懐良親王の征西府を排除するために、中央から送り込まれたことに由来します。了俊は、北朝方の武士を取りまとめて、大宰府を陥落させ、筑後の高良山に追い詰め、更に現在の熊本県の水島に陣を敷くことになりました。この時、大友、島津、少弐を呼び集めたわけですが、少弐冬資の着到が遅れたため、これを謀殺するという挙に出ました。この行為は、三家をもって九州を治めるという法的観念を持っていた大友や島津を怒らせることになり、結局、その企ては失敗。ただし、北九州を制圧し、少弐氏の勢力を極めて減弱化することには成功しました。
そして、これまたそのような法的観念を前提に、今川了俊は少弐が持っていた朝鮮との交易権を簒奪することになって、かえって、自らの貿易を意図していた足利義満と衝突し、遠州に飛ばされるということにもなっていきます。
経済と法的なものとがこのようにしてぶつかっていくということは、現代社会においても見られるところですが、正に中世九州においてもそのことが顕著に見られたということでしょう。
以上のように、三家によって九州を治めるという考え方は、いわゆる新興勢力として勝ち上がってきた龍造寺や鍋島に対しては、断固これを排除しようという発想になります。
少弐氏は、一四九七年、少弐政資が中国の大内氏のために多久で自刃。その後、息子の資元も多久で自刃(この時の龍造寺剛忠(家兼)の行動が馬場頼周からは謀反に見えたともいわれます)。そしてそのまた子供の少弐冬尚が神埼市の現在の城山に拠って、江上氏の助けを得ていたのですが、そこに勢力を拡大してきたのが龍造寺であり、鍋島でした。そのようなことを考えると、馬場頼周の謀計は、いわばそのような新興勢力を排除するという、これも法的な行動だったとも言えるかと思います。
そのような法的観念は、龍造寺方にもあって、『歴代鎮西志』にもあるとおり、龍造寺は少弐の天敵・大内義隆の「隆」の字をもらって龍造寺隆信となり、大内氏のほうは、少弐の上の大宰の大弐を称することになるというわけで、このようにいわゆる大義名分ともいうべきものを旗印に戦った人々の姿は、かえって現在のような情報化社会ではないだけに、逆に法的厳格性を追及していた、とも考えられるような気がします。
いずれにしても、一つの戦もただのお話しとして見るのではなく、そのような理屈を考えてみることも大事ではないのかなと、正に素人ながら思う次第です。
