群馬、静岡、京都、博多、大和町、武雄、浙江省などをつなぐ聖一国師と『葉隠』、そしてうどんやそば

葉隠の諸相

―群馬、静岡、京都、博多、大和町、武雄、浙江省などをつなぐ聖一国師と『葉隠』、そしてうどんやそば―

嘉村孝

聖一国師円爾は、「駿河安倍郡藁科の人で、五歳で久能山の堯弁法師について俱舎・天台を学び、一八歳、円城寺で得度、東大寺で受戒。のち下野長楽寺にいた、栄西の弟子栄朝に従って、禅の大戒並に三部灌頂を受け、嘉禎元年(一二三五年)入宋、径山の無準禅師に侍して、伝法の心印を受けたと言われる。仁治二年(一二四一年)帰朝。藤原道家の帰依をうけ、東福寺住持となり、建長七年(一二五五年)東福寺の功成るに及んで開山となる。弘安三年(一二八〇年)没。七九歳。聖一国師と勅謚さる」『聖一国師傳 補遺』(廣渡正利)とされる人です。

円爾は、今の静岡県で生まれて、群馬県太田市旧尾島町の長楽寺に学びます。そもそもこの尾島というところ、古くは新田荘であり、その子孫を自称する徳川家と極めて関係が深く、徳川家の先祖は、ここから足利氏の圧迫を逃れ、時宗の僧に導かれて諸国流浪の旅に出る。三河の国・松平郷に辿りついて、松平氏となった、というのが、日本思想体系では『葉隠』と対になっている『三河物語』で、大久保彦左衛門が述べているところです。

ですからそこには、天海により、秀忠時代の東照宮が日光から移築されており、それは長楽寺と対になっていて、新田荘歴史資料館(旧東毛歴史資料館)や千姫に関係深い満徳寺跡(資料館)などを含め極めて意義深い場所です。

円爾はそこでの修業を終えた後、中国の浙江省に渡ります。そこには径山(きんざん)万寿寺があって、そこでの先生が無準師範(ぶじゅんしばん)というお坊さんです。径山は径山寺味噌で有名なところと言ってよいでしょう。もう一つ揚子江の南側・鎮江には金山寺がありますが、私はむしろ日本とのつながりからいってこちらの方が正しいと思っています。無準師範の書は、東京国立博物館や福岡市立博物館で国宝の指定を受けており、その人物像(頂相)と共にすばらしいものです。

その後、円爾は日本に帰ってきて、有名なところでは武雄の廣福寺の開山になりました。この廣福寺、重要文化財の木造四天王立像があって、お庭も立派な、まるで京都のお寺のような素晴らしいところです。お寺の方のお話によると、昔は武雄温泉は廣福寺のものだったという話で、ちょうど温泉街の北側の奥にあって、その位置関係からしてもその通りだろうなと思われます。

さらに円爾は東に進んで、私の知るところでは大和町の万寿寺二世となりました。これは大和不動カントリー倶楽部でも有名な鍋島家の祈祷所です。これを作ったのは神子栄尊という長楽寺ゆかりのお坊さん、あるいはこの人は安徳天皇が実は亡くなっておらず、その人が作ったのだとかいろいろな言い伝えがあります。今では、万寿寺の手前にある実相院と與止日女(よどひめ)神社が有名かもしれませんが、一度足を伸ばしたいところです。

そして更に東に進んで、多分坂本峠を越えたのではないかと思いますが、太宰府にやってきて、そこに崇福寺を作りました。現在は法堂跡が残るのみですが、その跡を見ただけでも感動を覚えるような大きなお寺です。現に崇福寺は現在、福岡空港の近くに移動しており、そこには歴代の黒田藩主のお墓や、玄洋社の頭山満さんのお墓もあります。

もう一つ博多に作ったお寺が承天寺です。このお寺は当時綱首を務め小呂島の領主であった謝国明(宋人)のお金と少弐氏の土地寄進によってできたもので、これまた昔と全く同じ佇まいの立派な寺です。

ただし、境内の真ん中を道が通ってしまっていて、やや興ざめになっていたところ、先日散歩してみると、その道路を川に見立てて西側の歩道の博多駅寄りに門をつくり、そこには現在の径山の和尚さんの字と、太宰府天満宮の宮司さんの字が、表と裏に額で掲げてあって、福岡の人はなかなか粋なことをするなと思ったものでした。

福岡と言えば、博多の祇園山笠が有名ですが、この祇園山笠は、承天寺が発祥の地といわれ、博多に疫病が広まった折、聖一国師が施餓鬼棚の上に乗って、水をまいた、それが現在の祇園山笠になったというわけで、ですから櫛田神社を出発した祇園山笠は、最後は承天寺に入ってくるというわけです。町を歩いていると、「流」の世話人さんの家とかがあって、なるほどなるほどという感じです。ちなみに櫛田神社もその本家本元は、現在の神埼市にある櫛田神社という話で、私はそれは正しいのではないかと思っています。昔の櫛田神社の絵を見ると、みんな南の方を向いています。平家とのかかわりが深いのです。承天寺には、聖一国師は、うどん、そば、饅頭を持ってきた人、という石碑もあります。

その後、円爾は京都にのぼって東福寺の開山になりました。東大寺と興福寺とを合せた名前の広大なお寺であることは、皆様ご承知のとおりです。現在も鎌倉時代の建物が何棟か残っている素晴しいお寺ですし、秋から冬にかけての、売茶翁とも関わり深い通天橋のもみじなど、まさに絶景といってよいでしょう。その弟子無関(この人も長楽寺に学ぶ)が開山を勧めたのが南禅寺、そして京都五山の一番最後には万寿寺(先ほど話にのぼった径山や大和町が万寿寺です。)があるわけで、とにかく聖一国師の行ったことはすごいことです。聖一派は臨済宗最大のセクトです。

以上は具体的な「事業」の話しですが、そもそも聖一国師というのはどんなことを考えていた人なのかということがやはり大切でしょう。これについては『指月集』というのがあり、その中に聖一国師の話されたことが書いてあります。例えば「念仏こそ無念無想なる時の名也。然は経に云く。所有無見を名けて念仏とす。実相を見る者を名つけて念仏とす、分別有る事無き是真の念仏也と。仏名を唱る計を念仏と云うには非らず、無想無念無心なるを正に念仏と社云う也。仏の名を唱るを称名と云う、念仏には非らず、称名して他念無く、一心不乱なれは、無想無念に成る也。聲と念と相忘れて二つならざるは真念仏也。故に先達称名するを暫く念仏と名つくる也。只名を唱る計を念仏と云うには非ず、念と云うは正念也。妄念には非らず、仏と云うは覚也。覚とは云く正覚也。妄覚には非ず、正念と云ひ正覚と云うは無心處也。無心と云うは是れ眞念仏也。然して妄想の衆生は有相法に着して、正念正覚に安住し難し。仮に西方極楽世界の楽しき様を説て、先つ欣求せしめて、一向に弥陀名號を唱へは、無想無念に成る也。始は厭離穢土欣求浄土と心にて唱へつれ共、一心不乱に成る時は、則ち厭離心をも忘れ、欣求心をも忘れて、無想無念に成る也。」(『聖一国師傳 補遺』廣渡正利から)と。

つまり聖一国師という人は、典型的な禅者であるとともに、念仏の本質についてこのようなことを述べておられるわけですが、そこで思い出すのが『葉隠』の中にある禅者であり、かつ、念仏の行者でもある鈴木正三のことです。

なお先の、長楽寺には日光と全く同じく三仏堂があり(輪王寺と一緒)、その中の阿弥陀様は、『葉隠』に登場する蓮池藩の殿様鍋島直之(「超」のつく優しい殿様)が寄進したもの。また、江戸時代、圓義という坊さんが佐賀の宝琳院(佐賀の乱の憂国党の本拠)の住職を兼ねていたこと、などなど、話の材料は山程あります。

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