葉隠の諸相 ―背振山論争に関わった貝原益軒のこと―
嘉村 孝
葉隠には、福岡県、佐賀県の境にある脊振山の境界争いについてこんな記事があります。佐賀県人ならみんな知っている脊振山は、気象や自衛隊のレーダーサイトがあることでも有名な西日本で最も重要な山の一つです(昔は背振と書いたのですが数十年前に脊振と改名)。
「弁財公事の時百姓共相詰め候事 境目御見分の上使御下向に付、久保山公役(くやく)相當り候へば、百人の所に三百人も罷越し候。それに付山中多人数相見え、十左衛門殿より相尋ねられ候処に、百姓共申し候は、大事の時節の公役にて候へば、余計に罷出で候由申し候に付、耕作の為に罷成らず候間、相当の分罷出で候様に。と御申付け候。然れども人数相減らず、野も山も人計りにて候故、又々穿鑿これあり候処、明後日に相當り候夫丸共、今日より罷越し候。此の時節、公役と承りながら内に居り申す儀罷成らず。と申し候由。」と。
さて、この山の頂が争いになった、鍋島藩(つまり佐賀県)か黒田藩(つまり福岡県)かが争いになったことに関与した人に福岡の儒学者・貝原益軒(一六三〇年~一七一四年)がいます。現在の福岡市に生れて黒田藩に仕え、京都や長崎に遊学して朱子学を身に着けました。黒田藩に仕えた間に書いたのが『筑前国続風土記』で、印刷した本でも二十センチ以上あるかもという大部な本であり、現在の福岡県の筑前プラスαの相当部分の地誌について細かく書かれています。私は、この本を、より広い見地から見直してみるべきだと思っています(日本全体の歴史を考えるについても)。
「背振山は、板屋村の西南に在り。国中にて勝れたる高山也。…山上に神社あり。此上に登るに、板屋邑(むら)より原野を十二三町許登り行けば林木あり。又潤水あり、祓川と云。…老幼病弱なる者は、前なる人の帯に取付、後なる者に腰を押されて登る。板屋より御社まで廿二三町許あり。山上より四方窺い望めば甚廣遠也。秋の頃天気晴朗にし烟靄なき時は、朝鮮国見ゆ。春月霞多き時と云へ共、曇らざる日は、壱岐対馬まで能(く)見ゆ。対馬は是より百里あり。」「三代実録に、清和天皇貞観十二年五月廿九日庚辰、詔して筑前国正六位上背布利神に従五位下を授給ふと記せり。然らば朝廷よりも、殊に祟させ給ひし神なるべし。足利尊氏九州下向の時、白旗を棒て祈願有し事あり。」「又里民の云傳ふるは、古(いにしえ)辯才百済国より爰に来り給ふ時、乗給ひし馬の背を振たる故に、背振山て名付たりと云。」
というわけですが、益軒先生は、上記のとおり、背振山の頂上から朝鮮半島が見えると言うのです。私もそう思います。私自身、脊振山からは見ていませんが秀吉の名護屋城から対馬を見たことがあります。釜山との距離は、その半分もありません。それが一〇五五メートルの山の上からは、晴れていればはっきりと朝鮮半島が見えるわけでしょう。そうであるからこそ、この「背振」という名前の由来には二説あり、一つは「ソウル」、韓国語の首都という意味、もう一つは上記百済の王女が馬に乗って日本に来る時に、馬の背が揺れたと言う話。いずれにしても、韓国系の話です。それゆえに、背振山の上宮東門寺は山頂にあり、天台宗の大寺で、その下宮は福岡側に。下宮から上宮までまとめて福岡県というのが彼の立論です。
「建武三年、當山僧院の田宅の券契にも、筑前国早良郡(福岡の地名)上宮東門寺とあり。又天正六年波多江氏の證文にも、早良背振の上宮と有れば、上宮は筑前国なる事、其證明なり云々。」と。これは宗像大社などとも同傾向ですし、本居宣長の『古事記伝』にもこの話につながるような話があります。
しかるに、平安・鎌倉時代になって、栄西禅師が、彼自身は中国に渡る前、永く福岡の誓願寺などにいたのですが、二度目の帰りは筑紫山地の南側を通り、現在の脊振町の霊仙寺の近くにお茶の木を植えた。ここら辺りから山の南側が元気になりました。そして、現在も脊振神社の中宮は南側つまり佐賀県の脊振町にあるというわけです。
この流れをよく考えてみると、律令時代くらいまではやはり韓国との関係が相当強くて、山の北側の方が韓国に向いていたというのもあって北からの文化も相当流入。それが中世に入って平戸から東への山の南側のルートが盛んになり、中国、特に寧波に行った禅僧たちがもっぱら平戸、武雄、神埼、太宰府といったルートを通るということから脊振が山の南になったのかもしれません。「日本語」というものの語順(韓国的)や単語(漢語)にも関係します。全くの素人である私の推測に過ぎませんが、しかし大きく見るとそういうことなのかなと。
この益軒先生、本格的な著述は七十歳を過ぎてからはじめ、沢山の本をかき、八十四歳のときにはついに「大疑録」という本を書いて、これは大いに疑う本、何を疑うかというと、朱子学というものを根本的に疑っています。私としては「先生、朱子学者という看板を下ろした方がいいですよ」といいたくなるところもあります。
しかし、その朱子学の格物致知の延長が『筑前国続風土記』であり、もう一つの大きな本としては『大和本草』が挙げられますが、これは中国・明の李時珍の「本草綱目」にならう博物学の大部な本です。彼が長崎や京都に遊学した影響が大きいでしょう。その意味で西洋の影響も大いにありです。
ちなみに、貝原益軒というと、『養生訓』に並んで『女大学』が有名で、「女は嫁しては夫に従え」みたいなことを言っていますが、これは全くのウソで、益軒先生の文章を改造した本ですので念のため。
いずれにしても貝原益軒が韓国が見えるという話からそういう解釈をしているのは相当当っている気もします。残念ながら(?)黒田藩は負けてしまい、一方鍋島光茂も「弁財嶽境公事御利運の段申来り候節、『同役と云い、隣国の事なるに、笑止のこと。』と御意なされ候事。」というわけで、相手を思いやる言葉を述べていることに、これまた我々は学ぶべきものを感じる次第です。
