菅原道真の書からみえるもの(鳥点の筆法)と神国思想など

葉隠の諸相 ―菅原道真の書からみえるもの(鳥点の筆法)と神国思想など-    嘉 村 孝

 太宰府天満宮の宝物殿には、菅原道真の「離家三四月、落涙百千行。萬事皆如夢、時時仰彼蒼」という詩が書かれた掛け軸が展示されています。

この詩は、日本人が作った漢詩の代表的なものの一つですが、よくよく見ると、掛け軸の、その字のあちこちに鳥が飛んだり止ったりして、「道真が都を偲び、鳥になって帰りたくなってこのような書を書いた」といった説明がなされています(詳しいことは忘れましたが、趣旨としてはそのような背景が書かれています)。

しかしながら、たとえそういうことがあったとしても、話はもっと広いのではないか、と、私としてはかねてより思っております。

 それというのも、中華圏に行ったり、あるいは日本の中華街にでも行ってみると、いわゆる「花文字」というのがあって、大きく書いた名前のあちこちに鳥が飛んでいたり花があしらわれたりという、一つの芸術があります。この花文字の元は、書道の本によりますと、そもそも漢の時代に飛白書というものがあり、それは刷毛で文字を書くという一つの芸術で、後の空海がその道の非常な名手であったとされ、現在も彼が書いたものが残っています。そして、花文字もまさに刷毛で名前などを書くわけです。そして、そのあちこちに鳥がいる。書道の本では飛白書と鳥点の筆法とはいわば同一のものとして説明されていたりするので、素人の私としてはよくは分からないものの、そういう大陸伝来の芸術が元からあるのではないか、と思っていたわけです。

特に河南省にある石製の昇仙太子碑額は、飛白書の典型として説明されており、パッと見にはよく分かりませんが、この石碑の一番上にある、「昇仙太子之碑」の部分を拡大してみますと、まさにその字の上には沢山の鳥がさえずっています。つまり、道真の書と全く同じスタイルの石碑が大陸にあるわけで、こうしたアジアの伝統を、祖先の代から中国(唐)や朝鮮との関係が深かった彼としては、十二分に取り入れており、宝物殿の字もそうした力量の顕れとして書かれているのではないか、といったことを思うわけです。

更に、このように鳥があちこちに飛ぶということは、西域の文化に影響されたといった話しもあり、そもそも鳥はユーラシア大陸伝統のもので、例えば韓国のソッテなどもそうですし、イランのペルシア絨毯の上に飛ぶ鳥などもそうかと思います(シーア派においてはスンニ派と異なり全てがアラベスクというわけでなく、鳥などを絨毯上に描くことが許されています)。改めて道真の「大陸性」と遣唐使の廃止とをリンクさせたくなるわけです。

そのような道真が遣唐使の廃止を建議したことから、特に彼に関係深い言葉に、「和魂漢才」があります。こ

の言葉は東北大学の原田隆吉先生などによると、源氏物語などに「やまとだましい・からざえ」と言われ、中国渡来の正確鋭利な漢才も大切だが、日本社会の常識に通じ、臨機の処置をとれる人物(和魂)も大切。つまり、専門と教養との兼有を説いたものと言われていました。しかして、後に蒙古襲来による神国思想が登場すると、特に室町時代の偽書にもいわれ、あるいは後の挿入があったともいわれる「菅家遺誡」などにより、言葉自体、一つの転換を遂げ、道真も神国思想の代表者のようなものであるという話になり、特に、江戸時代の最末期になってから、吉田松陰の大和魂ともつながるようになっていったといいます。

むしろ道真の本意や源氏物語などの和魂漢才は、もう少しマイルドなものであったとのことです。

そして、明治以降も、例えば森鴎外のような明治の道真と言われるような人の持った和魂洋才も、平安以来の良識的なものだったのですが、時代の潮流としては、道真の本来や鴎外などとは全く異なる方向の神国思想的和魂が強くなっていったとのことです。

このあたり、私にはよく分かりませんが、道真が八九四年に遣唐使を廃止して国風化が生じたといわれるところ、その後はむしろ一一三三年の宋船の佐賀・神埼荘への渡来に見られるように国際交流は広がっていき、かつ、法律においても、関東の慣習法としての国風化(御成敗式目)は、むしろ仏教と結びついたグローバルともいえる方向性を持っていたことが面白いと思います。

それに対して、同じく外国への門戸を閉じた、一六三九年のいわゆる鎖国以降は、靖国神社にある靖献遺言が、その内容が全て中国の話しであることなど、宋学的大義名分論が和魂と言われ、かつ大和魂に変り、明治維新の原動力(?)になったとも言えるのではないでしょうか。

難しい話しですが、大きく見ればそうではないかと私としては思っているとともに、改めて、世界的広がりを持っていた道真と言う人を評価したいと思います。

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