葉隠の諸相 「葉隠から見た柳川観光」 嘉 村 孝
佐賀駅バスセンターから30分もバスに乗れば柳川に着きます。こんなに近いのだから、葉隠との関係もあって然るべき・・・と誰でも思うことでしょう。
まずは有名な話しとして、龍造寺隆信による蒲池鎮漣(かまちしげなみ)の謀殺でしょうか。
即ち、当時、須古にいた隆信が、柳川の殿様・蒲池鎮漣を誘い出し、現在の佐賀市辻の堂の辺りで討ち果たしたという話し。今もその供養の為に小さなお堂があるというわけです。隆信のやり方があまりにも酷いというようなことが強調されますが、こうしたことが起きたことの原因として、やはり蒲池氏と龍造寺氏との法的な枠組みの違いも本来は大事なのではないかと思います。つまり、大友や蒲池という鎌倉以
来の勢力と、その友人・少弐氏を倒した龍造寺氏との軋轢です。
それはさておいて、蒲池氏が亡んで、秀吉による島津征伐のあと、柳川は立花宗茂が領するところとなりました(蒲池氏は、家老として残ったそうで、その一族がかの有名な歌手Mさんとの話しもあります)。
この立花宗茂の出自を考えますと、彼は有名な高橋紹運の子供で、大友の一族戸次(べっき・立花)道
雪の養子になった人です。
高橋紹運は吉弘鑑理の息子で、大友の一族(家来)として大友氏のドル箱とも言うべき博多を守る立場にありました。
当時の博多は、正に日本の玄関口。その貿易の利権を巡って、鎌倉以来の名族、少弐、大友、更にそこに割って入ろうとしたのが中国の大内。そして少弐氏が亡んだあとは龍造寺隆信も、ここへ手を伸ばしました。
そんな中、大友氏の家来として筑前・岩屋両城督となった高橋鑑種(あきたね)は、元々高橋の名が漢の劉邦に由来する大蔵一族でもあることから、また、大内義長(義隆の後継。ただし、大友系。複雑!)の奉行人でもあったことから、大内のあとを襲った毛利との関係が強く、いわば独立国を志向して、永禄一二年(一五六九年)毛利と大友との立花城をめぐる攻防戦を導き出します。
立花城は香椎宮のうしろ、福岡空港や新幹線からもよく見える小山です。
この立花城をめぐる戦いについても葉隠に触れられていますが、そこでは、大友宗麟による立花城守将
への開城の命令があったことが、いかにも大陸的な戦争であったことを思わせ、以前も記しました。
しかるに、結局、高橋鑑種は追放され、その高橋という名跡を継いだのが高橋紹運でした。高橋紹運は
その後における島津の北上を、太宰府の岩屋城で食い止め、壮烈な討ち死にを遂げたことでこれまた有名です(高橋紹運らが全員討ち死にをした太宰府の大野城中腹の岩屋城には、立派な石碑も建っていますが、この討ち死には単なる猪突ではなく、来るべき秀吉の九州攻めを見越した計算づくのものであったという指摘もなされています)。このような勇猛な武将の息子がこの立花宗茂です。宗茂はそんな出自の勇将でしたから、葉隠にも載っているとおり、関が原の戦いで西軍に付いたことにより陸奥棚倉に移された後も、結局は一六二〇年柳川に再入封し、柳川藩の藩主となりました。お隣の三池藩主高橋直次も上記高橋の名を継いだ立花宗茂の弟です。
これが一般的な歴史なのですが、なぜこんなテーマを取上げたかというと、今年の一〇月三一日、東京
佐賀県人会青年部の若楠会が吉野ヶ里遺跡でも有名な神埼市を訪問し、その翌日柳川を訪問する(本稿が活字になるときは過去形かも)ことによります。
葉隠との関係からいうと、目立たない話しですが、この立花藩の菩提寺福厳寺は、黄檗宗の寺であり、
当時柳川藩内には数々の黄檗宗寺院が出来たようです。現在檀一雄さんらの墓もある福厳寺に行ってみますと、釈迦如来を祀った本殿に向けて韋駄天の像や四天王がそれを守る形で存在します。これらは正に中国風の寺院の特徴をしっかり備えたものであって、いかに当時の黄檗文化が長崎や小倉をはじめとして、佐賀藩各地などにも浸透していたか、柳川と長崎、そして中国との関係が強かったかを物語るものと言
って良いでしょう。多分、有明海の水運が最近まで盛んであったこととも関係するでしょう。このような傾向に対して、戦国時代あるいは中世的な立場から、いわば鍋島一国主義を唱えて、異を唱えていたのが葉隠の山本常朝らということになるわけで、一種の反面から、葉隠と柳川とは極めて影響し合う関係にあったとも言えるかと思います。ちなみに今回訪れる神埼市の安国寺(足利尊氏が建立した寺)にも黄檗宗の即非禅師の供養塔があります。
なお、現代の柳川のことを考えてみると「柳川の殿さんと呼ばれて」という本にあるとおりその一六代当主になられた立花和雄さんは戦後の厳しい時代において「御花」を料亭にされ、その他様々に柳川の観光に尽くされました。こうしたことをしっかりうかがってみるのも目を開かされることと思います。
