葉隠と「暦」との意外な関係
葉隠の口述者山本常朝は、二代目藩主鍋島光茂に仕えた侍でした。
一六九五年(元禄八年)、その光茂が隠居し、子供の綱茂があとを継ぎますと、翌年、佐賀藩では佐賀城本丸門に時の太鼓が、高木町願正寺に時の鐘が設置されます。それとともにこのころ、いわゆる他方者抱えとして、よその土地出身の家来が多数召し抱えられます。その中には、儒者、医者、そして「天文学者」などがいます。
これに対して常朝は、口を極めてその非をならします。
一体、どうしてこういうことになるのでしょう。
そもそも、日本では、天智天皇の時、漏刻という合理的な機械により時を知るようになって以来、時や季節を知ることに合理性が強く求められますが、永らく使用されてきた暦は、唐の時代の暦を元にした宣明暦でした。
しかし、以来800年、この暦と実際の例えば冬至の日との間には2日間のずれが生ずるようになっていました。そこで、元々幕府碁方であり、数学者でもあった渋川春海は、一六八四年(貞享元年)、中国・元の授時暦を元にした貞享暦を作り、これが幕府の採用するところとなります。
この採用に当っては、数学者関孝和らとの間で、熾烈な競争が行われたことなど有名です。
注意すべきは、春海が貞享暦を作った下地として、彼らには、「日本独自の暦」を作る、という国粋的思想があったことで、それは、山崎闇斉や保科正之、水戸黄門らとの交わりによるものでした。特に春海同様闇斉の弟子であって、尊皇論の先駆者となった浅見絅斉などは、毎日皇室を押し込めた幕府の方角に向かって、「この東夷め」というわけで、刀を抜いて振り回していたとさえいわれます。
しかし、そうはいっても、授時暦が元の暦であるように中国文明から逃れるわけにはいきません。
つまり葉隠が、こうした新しい天文方などに反発を示すのは、これらは、新しい合理的な技術であったりはしますが、日本中世の、というか佐賀藩古来の土着的、実質的君臣関係には水を差すものだという憤りであったと思われます。春海らの立場は、合理的ではあるがそれは技術面の話で、所詮中国文明の手のひらの上で踊っているにすぎない、というのは言い過ぎでしょうか。
一方、葉隠は不合理のようですが君臣関係には納得づくの、死にたくなるくらいの実がある。つまり根本において合理的、とでもいいたいのでは、と思います。
このあたり、どちらがよいと断定的なことは控えるべきでしょうが、日本の歴史全体にかかわる問題で、じっくり考えたいものです。
