葉隠の諸相 「葉隠とキリスト教」 嘉 村 孝
今回は葉隠あるいは武士道とキリスト教との関係について、門外漢ながら触れてみたいと思います。
まず、佐賀の葉隠研究会でも、葉隠とトマス・ア・ケムピス著『基督に倣(なら)ひて』との間に、大きな共通性のあることが話題になったことがあったようです。
確かにこの二つは似ています。例えば洛陽堂版(中山昌樹訳)の「基督に倣ひて」第二章「己れを知りてへりくだるべきこと」をみますと、「人はみな生れながらにして知識を求む。されど、神をおそるることなくば、知識に何の益あらんや。まことに、神につかうる賎しき農夫は、天の運行を究めて、己れをなおざりにする高ぶれる哲学者にまされり。凡そおのれを良く知る者は、いよいよ己れの卑しきを見るに至り、人々の賞賛に悦ぶことなし。・・・」とあり、一方、葉隠の栗原荒野さん本四十八には「道とは我が非を知る事、念々に非を知って一生打置かざる事」(ただし、この表題は栗原さんが付けたもの)を見ますと、「『・・道と云ふは、我が非を知る事なり。念々に非を知つて、一生打置かざるを道と云ふなり。聖の字をヒジリと訓むは、非を知り給ふ故にて候。佛は知非便捨の四字を以て我が道を成就すると説き給ふなり。心に心を附けて見れば、一日の間に悪心の起ること数限りなく候。我はよしと思ふ事はならぬ筈なり。』と申され候に付、一鼎得道のよしなり。・・」などとあって、二つの本の間には非常な共通性がみられます。その他、死に関する文章などにも、極めてよく似たところがあります。
で、このトマス・ア・ケムピスという人ですが、彼は一三八〇年生まれのドイツの敬神作家で、聖書を徹底的に読んだ人といわれ、「基督に倣ひて」にも頻繁にそれを引用し、キリスト教世界でこの本は、聖書の次に多く読まれたと言われています。しかもそれは、天草耶蘇会によって一五九六年には日本に入ってきていました。
ところで、何ゆえ今回このようなテーマを取り上げたかといいますと、前号で伊達ミツ代さんが本誌に寄稿されたとおり、例年行っている県人会青年部・若楠会の郷土訪問において、昨年嬉野市を訪れたことによります。
谷口市長さんらの温かいおもてなしを受けて、市への公式訪問をした翌日は、格別なお心遣いで大野原の自衛隊演習場に登る機会を得ました。そこからは大村湾、西彼杵半島、針尾にある有名な「新高山登レ」の通信施設、などなど、日本本土の最西端がまさに指呼の間に見えました。なるほど佐賀県にもこんなに西欧に近いところがあったのか、と改めて感動した次第です。そこで、そんな経験を前提にして、鍋島勝茂公譜考補を見ますと、初代藩主勝茂時代、「今年六月、大村、俵坂にキリシタン宗門起り、嬉野不動山に罷りある。大村四郎兵衛と申す侍もこの宗なり云々」として俵坂にキリシタン宗門が起り、その宗徒を捕誅したことが書いてあります。この俵坂は大野原に登る途中にありました。そして大野原の後訪れた不動山においては、逃れたキリスト教徒に対する苛酷な弾圧が行われ、その遺跡も廻らせていただきました。
実は、こうしたことがあった以前の一六〇六年、肥前でのキリスト教布教が始められ、一六〇七年には鹿島の浜にドミニコ会系のセミナリヨが、一六〇八年には、佐賀にもサン・パブロ教会が建てられたようです。鍋島直茂がキリスト教に入信したという記事も確かありました。それが中止に追い込まれたのは、一六一三年、幕府の命令によるものでした。そんな肥前へのキリスト教流入の歴史を前提にすると、このトーマス・ア・ケムピスの著書の趣旨が、佐賀に全く入って来なかったともいえません。それどころか、ファン・デ・サン修道士など、一六〇七年六月に鹿児島に来日した後、迫害されると、佐賀に行ったとの記録があるくらい、佐賀はむしろ、修道士の集まる場所だったようです。しかも、時代は下りますが、一六三七年、島原・天草の乱の後、天草に、葉隠にも登場する鈴木正三ら排耶僧が派遣され、むしろ禅とキリスト教とが結びついたという現象もありました。
同時代のこととしては、日本と異なりキリスト教が全面的に禁止されていた中国において、マテオ・リッチによるキリスト教義の漢文化がなされ、それが日本に入ってきて、葉隠とは異なりますが、後の平田篤胤らの神道に習合していくという現象もみられました。
このように、キリスト教は、日本の思想にとって決して無縁ではなく、儒教主義や神道、あるいは、明治時代の武士道にも、深いところで大きな影響を与えていることを考えると、改めて葉隠との関係にも興味がもたれるところです。
