葉隠と肥前皿山・金立山

葉隠の諸相 -葉隠と肥前皿山・金立山―      嘉 村 孝

葉隠には、「鍋島直茂、朝鮮凱旋の時陶工を伴なひ帰りて有田焼を創む 有田皿山は直茂公高麗國より御帰朝の時、日本の寶になさるべくと候て、焼物上手頭六七人召連れられ候。金立山に召置かれ、焼物仕り候。其の後伊萬里の内、藤河内山に罷移り、焼物仕り候。それより日本人見習ひ、伊萬里有田方々に罷成り候由。」という話があります。

この話は一応有名な話といってよいでしょうが、これをタネにして、もう少し深く考えてみたいと思ったわけです。そのよすがになるのが、中島浩気さんの『肥前陶磁史考』という九百頁近くにのぼる大著です。

 この本の冒頭にある、「本書開窯年表」を見てみると、肥前には、唐津焼の仲哀天皇九年から土井首焼の大正五年に至るまで百近くの窯元があったことが書かれていて、現在ではたぶん滅びてしまったであろう窯元まで含めると相当な数があったことが知られます。

特に文禄年間から慶長年間にかけては新たに開窯した窯が極めて多く、直茂による「焼物上手頭六七人を連れられ」などというのは、むしろその「一部」ではないかと思われてきます。

そして、「金立山に召置かれ」とあることから、今の佐賀市北郊の金立山の麓に連れてきたのではないかということになりますが、これについては、金立には朝鮮墳が残っていて、「逆修朝鮮國工政大王之孫金公之立石」などと金文の入った、いわゆる逆修塔とか、その近くには「黒土原の窯址」らしきものがないではない、などなどとあります。

そして更に葉隠に載っている話として、秀吉が肥前名護屋に向かう途中、直茂の継母に当たる慶誾尼(龍造寺隆信の母)が、焼き物におにぎりを乗せて金立山の近くで秀吉に提供し、秀吉はそれを褒めて、「武邊の家は女まで斯様に心働き候、土器無類の物に候」と言ったというような話があります。その近くに今もある橋の名は名護屋橋です。

実際のところ、文禄、慶長の頃、相当多数のいわゆる朝鮮系の人がこの肥前どころか、広く言えば日本全国にやってきたことが窺われるわけです。その中でも有田焼で有名なのは、百婆仙(韓国ではベクパソン)と並ぶ李参平ということになろうかと思いますが、それについては、李参平はそもそも慶長の役の際、日本軍の道案内をしたという、唐人町の由来者・李宗歓と全く同じようなことのために、戦争が終わってから現地でいかなる危害を加えられるか量り難しということになり、多久の軍勢とともに日本へやってきたということです。

そして、龍造寺隆信の弟長信の子多久安順の元に預けられ、李参平の出身地が忠清南道鶏籠山の金江島であったことから、それを姓として金ヶ江と改め、参平を三兵衛と通称するようになったとあります。私がさらっと見た限りでは、忠清南道鶏籠山までは確認することができました。李宗歓が北朝鮮にある川崎という地名にちなんで川崎という姓になったのと同じように、出身地の名前を名字にしたということのようです。

このあたり詳しくは、文化二年と言いますから随分下った時代ではありますが、「金ヶ江三兵衛由緒之事」なる文書が『多久家文書』中にあり、大体そのようなことが書いてあります。

そして、三兵衛の得意分野は何かという話になって、焼き物である、ということになったのですが、なかなか良い土(石)がなく、その後十年以上探し歩いた挙句、有名な有田の泉山で白磁鉱を発見して、有田焼の創始者になったということがこの本からは知られます。

焼き物関係の本を読んでいますと、上記金ヶ江三兵衛や百婆仙だけでなく、その前後、相当多数の韓人が来て、あちらこちらに窯を築いていたようです。現在でも、例えば武雄市の奥の黒牟田などには黒牟田焼きが残っていて、焼き物の破片を捨てた大きな山が出来ているのをご覧になった方も多いでしょう。また、姓としても、日本でポピュラーないくつもの名字がやはりあちらから来たという話です。

また、文禄・慶長の役では、こうして朝鮮系の人が渡来したのみならず、赤穂浪士で有名な武林唯七の祖父が南宋・杭州の武林(門)の辺りから朝鮮経由で来て、遂に孫は武林という侍になって、泉岳寺で切腹に至った、などという話もあるわけで、今の常識ではおよそ図り難い国際交流がなされていたとむしろ考えるべきではないかと思っています。そして、それが特に武士道に大きな影響を及ぼしたということになるのでしょう。もちろん、藤原惺窩に大いなる影響を与えた姜沆などは巨大です。

いずれにしても、こうしたことにしっかりと正面から向き合って勉強し、それがかつ、日本人の思想形成にも影響を及ぼしたことを考えてみることが大切だと思う次第です。

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