名将言行録などにみる鍋島直茂と小早川隆景

      葉隠の諸相 ―名将言行録などにみる鍋島直茂と小早川隆景―    

 嘉 村 孝

「名将言行録」は旧館林藩士の岡崎繁実が明治二年に完成させたもの。「葉隠」の成立は享保元年(一七一六年)です。ちなみに小早川隆景は、「三本の矢」で有名な毛利元就の三兄弟、長男毛利隆元(たかもと)、次男吉川元春(きっかわもとはる)、三男小早川隆景(こばやかわたかかげ)の末弟です。で、もういちど振り返って、小早川家とはいったい何かと言うと、一一八〇年の源頼朝の旗揚げに際し、「石橋山の戦い」で敗れた頼朝が、真鶴岬から安房に逃れるにつき、土肥実平の援助を受けました。この土肥実平が三原に封ぜられてできたのが、小早川家と言うわけです(早川は小田原の早川)。隆景が直茂よりも五歳の年長で、「二人の仲が良かった」という事は「葉隠」にも「名将言行録」にも書いてあります(「葉隠」を「名将言行録」が引いたケースが多いのですから当然ですが)。

「隆景、鍋島直茂と交はり深し、直茂下国の時、隆景が病に臥すを聞て、三原に立ち寄り病を訪ふ。隆景後来のことを物語ぬ。直茂流涕して去る。隆景薨(みまかる)後、慶長五年、直茂の子信濃守勝茂、石田三成に黨し家幾(ほと)んど亡びんとす。是より先、伏見騒動の時、秀忠の簾中を直茂に預けられんとありし時、直茂身命の限り守護すべしと申しゝことあるを以て、直茂に對して、勝茂の罪を赦されたり。是前年、隆景が授けし所なりとぞ。」 

しかして、そもそも、どうして二人が仲がよかったかということを基本的に考えてみる必要があるかと思います。

龍造寺隆信も大内義隆の「隆」をもらって「隆信」で、隆景と同じ。それというのも、鎌倉時代以来、九州は少弐(武藤)、大友、島津が法的な権威を持っていたところ。そこへ博多の利権をめぐり室町時代から介入してくるのが大内、そして、それを継承した毛利。一方、龍造寺、鍋島は最初は少弐を支え、大内とも田手畷の戦いなどで奮闘しますが最終的には大内と組んで肥前の主となる。鍋島氏の菩提寺・高伝寺は萩の瑠璃光寺の末寺という位置づけです。特に永禄一二年の立花城をめぐる、つまり博多の利権をめぐる大友と毛利の合戦の背後にはそのころ大友に攻められていた龍造寺、鍋島がいます。大内に続く毛利も、博多というドル箱をなんとか自身の勢力範囲に置きたいと考えていたわけです(結局門司でストップですが)。

その意味で鍋島氏と毛利氏とは、本質的に利害が一致していますから、基本的に仲良しです。そのような中で、二人の武将の共通する考え方はどういうものかというと、私としては、鍋島直茂がいうとおりの、「実」の発想に立っていたということが言えると思います。そして特に、隆景の場合は鎌倉以来とも言える水軍を活用しましたから、朝鮮半島についても情勢をしっかり把握していたことが、以下の文章からも読み取れます。つまり「情報力」。

「鍋島直茂の臣、綾部右京、直茂に向ひ、当時日本にて名将と申すは小早川殿と、主公との由風聞仕ると申す。直茂如何なることを聞て、左様に隆景と、我と似たる様に申すぞ、田舎者にて上方のことを知らざる者の申すことならん、較べて言ふべき人にあらず。……朝鮮陣中の事段々御詮議なり、太閤の仰出さるゝ事を、夫は御尤(もっとも)是は閊はり申すべく、彼は何々と逐一申上げられたり。如何なる事かと思ひ居たりしがさて其後朝鮮に渡海して見るに、七ケ年在陣中、隆景申上げしことに少しも相違なく、皆々割符を合はせたるが如くにてありき。実に天下の名人にて較ぶべき人にあらずと言はれたり。」

更に、そんな隆景は、「無理をしない」というのも偉いところです。

 「隆景、秀秋を養子にせしことを、安国寺聞て、隆景に向ひ、御養子御願の儘に相済み候こと目出度候、然れども是は貴公御一代の御過(あやま)りなるべし、其故は御養子を成され候も、多き御一族の中何れにても国を治め給ふべき器量を御見立候て御子に成され候はば末の世まで筑前は中国と同く毛利の御分国なるべきに他姓の金吾殿を御養ひ国を譲り給はんこと、筑前の国は指上げられたる同前の様に存候、貴公には殿下別して御愛敬(あいきょう)成され候へば、今一ケ国をも御取副へ候とも成間敷ことゝは存ぜず候、左候てこそ毛利家の国もいよいよ広くなり申べきに、我等は此儀大なる御思案違と存候と言ければ、隆景聞て、西堂には左様に思はれ候か、我等存意とは表裏にて候、我等平生の気遣は、毛利家の分国八ケ国にて、其上筑前を我等領し、凡そ九ケ国に至り候へば、毛利家には国甚だ多過ぎたるかと存じ、却て毛利家の禍になりなんかと、是のみ心許なく候、然る故に、我国をば毛利の子孫に譲らずして秀秋に譲り候、国を取るにも、種なくしては取られぬものなり、我等は種之なく候へば、何を種として国を望むべきぞや、種なくして欲深くは身の禍となるべし、我身は年寄候へば、頓て見罷るべし、我等死して後毛利家のこと、只今見る様に思はれ候、元清長命ならば長久の謀もあるべけれども、病者なれば、頼み少し、相構へて種もなくして国を望む心あるべからずと言ければ、安国寺道理に感服し、思慮なきこと申出し、面目を失ひ候」

 国の大きさを適当に抑え、秀吉が九州に手をつっ込みたいと思っている欲望と歩調を合せ、毛利の安泰を図ったということでしょうか。

こうして、鍋島直茂と小早川隆景とは、その発想において極めて強い共通性があります。これは先のとおり「実」というフレーズでくくれるとも言え、伊達政宗においてもまた同じであることは、先にご報告した通りです。

鎌倉武士以来の、様々な法的枠組みの中で、自身や家来の利益を追求していたこの戦国武将たちは、責任やけじめを基本的ポリシーとしていた近世武士道の人々とは随分異なった生き方をしていたものだなと、改めて思われるところです。

 

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