葉隠の諸相 ―葉隠の山本常朝と煎茶の売茶翁―
嘉村 孝
私は、去る平成三〇年一一月二三日に標記について佐賀市で講演をさせていただきましたので、その中身をいわばかいつまんでここに述べてみたいと思います。
最初は、このような題での講演を依頼されて実は面食らいました。というのも、売茶翁のいわば「元」にあたる黄檗宗に対して、それにぞっこん惚れ込んだのが山本常朝の主君・鍋島光茂の子供である綱茂。それに対して、いわば異を唱えたのが常朝側ということになるからです。しかし結局のところ、常朝さんも売茶翁も、「お茶」という点においては共通性があるということで何とかおさまりをつけた次第です。
さてそのようにおさめるには、やはり世界情勢を見なければいけません。この二人、いずれも世界の変化に対していわば正反対の行動をした方々だからです。
改めて述べるまでもなく、千六百年代における日本周辺は正に波騒いでいました。そして、秀吉が行った文禄・慶長の役以降、明の滅亡も預かって数多くの大陸の人々が日本に逃げてきた、あるいは移動してきたという経緯があります。
分かりやすい話、元禄九年(一六九六年)の長崎の人口は六万四五二三人であると言われますが、その内約一万人が中国系とのことです。この傾向は佐賀県ももちろん同様であり、特に当時は船が小さかったので、長崎からの文化は大村藩との境の俵坂を越えて、売茶翁の故郷、蓮池藩の領地である嬉野・塩田を通って塩田津へ。そこから船に乗って筑後川河口に近い蒲田津から佐賀江を通って蓮池、更には市内の今宿、十間掘川と通り、土橋の唐人町、つまり、今の佐賀市の真ん中まで繋がっていたと言えます。売茶翁の父柴山常名の墓も塩田にあります。つまり、佐賀市は正に外国に開かれていたわけで、このことは、例えばケンペルの「江戸参府旅行日記」に載った地図などからも伺うことができます。ちなみに、今回の講演を企画された売茶翁顕彰会の川本喜美子理事長のご先祖が、上記今宿を仕切っていた明の一三官・武富廉斉。ご自身の父上は、最期の朝鮮軍参謀長の井原潤次郎中将。もとより一族には大隈内閣の武富時敏大蔵大臣などなど正にキラ星の如しです。
こうしたことは物の移動からも明らかで、元は中国からやって来た長崎の逸口香が嬉野、塩田、蓮池そして佐賀にまで存在するということからも、村岡総本舗の村岡安廣様が提唱しておられる「シュガーロード」と軌を一にする「逸口香ロード」があったことは間違いないのではないでしょうか。
それでこの売茶翁という人ですが、こんな国際的影響を強く受けた蓮池で幼少時化霖和尚の弟子になった後京都に登り、隠元禅師の後を継いだ萬福寺第四世の独湛性瑩より偈を授けられたとか。この独湛性瑩は、隠元同様中国からの渡来僧ですが(萬福寺は一三代まで全て中国僧。その後も)念仏禅を唱えた人であり、それまでの日本の禅宗とは一風変わっています。これは黄檗禅だけでなく、正に葉隠における排耶僧・鈴木正三なども仁王禅と称して念仏を唱えることを提唱しています。そうした同傾向が葉隠関係者の中に見られるのも、同じ「時代」のなせる業でしょうし、道者など隠元前に渡来した黄檗僧の影響があるのかもしれません。
その後、売茶翁は仙台で約四年間を過ごし、雷山で修業し等々のことを行って、六〇歳を過ぎてから京都で茶を売ることを始めたのですが、彼が何を考えていたのかを知るには、『売茶翁偈語』を読むことはもちろん、彼の交友関係をしっかりと見てみる必要があるでしょう。
その中には、例えば湛堂慧淑のように鎌倉時代の叡尊の系譜につながる律のお坊さんがいたり、法弟にあたる大潮元皓は荻生徂徠の弟子で、中国語の会話能力に極めて優れていていたこと。その門下には、折衷学派の儒学者・宇野士新(宇野明霞)がいて、折衷学派と言えば、例えば佐賀の隣・博多の貝原益軒などもそれに当りますが、極めて穏当な儒学を唱えているということが思い出されます。葉隠の対極にある神儒一致の山崎闇斎系とは異なるのです。
こうして、売茶翁の交際は永谷宗円(永谷園の祖)や大典顕常、伊藤若冲、池大雅、最終的には木村蒹葭堂などなど、こうした幅の広さが売茶翁の真骨頂と言えるのではないでしょうか。
そして、売茶翁は「儒仏道いずれにもあらず」と述べるように萬福寺を「出た」と言われますが、決して黄檗宗を「捨てた」わけではありません。それは、黄檗禅の徹底と言ってもよいと思います。
即ち、この「儒仏道いずれにもあらず」で思い出されるのが中国の「虎渓三笑」の故事です。三世紀、中国山西省の廬山・東林寺では、慧遠(僧)、陶淵明(儒)、陸修静(道)の三人が楽しく話しているうち、二人を見送った慧遠が、自らに課した虎渓の橋を渡らないという戒を破ってしまって、三人が大笑いしたという話。これは、実は浄土真宗の本山である西本願寺に、お御堂を廬山に見立て、虎渓の庭、虎の間、更には「三笑」を演ずる能舞台があるというしつらえで視覚的に具現化されており、どうも浄土真宗と萬福寺とには極めて強いつながりがあるようです。
かくして、このような幅の広さをもった売茶翁は、まだまだ研究すべきものを含んでいると思いますが、一方の常朝さんの方はどうかと言いますと、こうした新しいものに対して、どちらかというと特に闇斎系武士道に対してマイナス面を見て、中世の「一味同心」の世界に憧れたということが言えるでしょう。しかし、「一味同心」といえば叡尊がいた西大寺の大茶盛が浮かんできます。つまり茶を飲んでみんなが団結をするということです。葉隠の中にも「茶の湯の心は、眼耳鼻舌身意を清浄ならしめること」といった一節が出てきます。売茶翁はもとより茶です。
こうして、一七世紀から一八世紀にかけての世界情勢を受け入れ、あるいは反発しながらも、「茶」の一点において、この二人はやはりつながるのかなと思うわけです。
