葉隠や常山紀談における小早川隆景

葉隠の諸相

―葉隠や常山紀談における小早川隆景

嘉村孝

 

平安末、相模の豪族・土井実平は、石橋山の戦いで負けた源頼朝を船で安房に逃がすという功を立て、それにより安芸(広島県)に領地をもらいました。そして、子孫が小早川を称し(小田原に早川があります)、その後、沼田と竹原の二つに分かれましたが、十一代の孫に至って、毛利元就の三男隆景を養子とし、彼がのち両家を併せた、と言われます。土井実平が海の武士であったのと同様、小早川氏も沼田などを拠点とする瀬戸内海の海の武士だったようです。

毛利元就には毛利隆元、吉川元春・小早川隆景の三人の子どもがいましたが、毛利隆元、吉川元春は比較的早く亡くなったので、隆元の息子輝元を助けて、毛利家を信長や秀吉の侵略から守った立役者が小早川隆景と言ってよいでしょう。もっとも、隆景についてのまとまった本はなく、吉川弘文館の『人物叢書』にもありません。私が紐解くのは渡辺世祐著の『小早川隆景』です。これはもともと歴史家の筆になったものではありませんが、むしろ法律の実務家による素晴らしい本ではないかと思っています。

 その隆景について、『常山紀談』にはこんなふうに載っています。

「安芸中納言毛利輝元は、関ケ原の時(宇喜多秀家と共に徳川家に弓を引くことになったが、関が原に行かなかったので、安芸、備後等の国を削られたけれども、長門、周防、両州を確保できた)。

是より前小早川隆景遺訓して輝元を諌められし中に、毛利家五十余郡を領し、富貴誠に溢れたりといふべし。此れより後仮にも国を貧る心あらば、たちまち滅ぶべきよ、と戒められしに、輝元、隆景の戒を忘れ、果たして国を削られたりき。隆景先見の明かなる露もたがはざりけり。

隆景は武勇のみにあらず、智謀にすぐれたり。父元就、病重くなりて其の子を集め、兄弟の数ほど箭(や)を取寄せ、多くの矢を一ツにして折りたらんには細き物も折りがたし。一筋づつわかちて折りたらむにはたやすく折るよ。兄弟心を同じくして相親むべし、と遺言せられしに、隆景其の時、争は欲より起り候。欲をやめて義を守らば兄弟の不和候まじ、といはれしかば、元就悦びて、隆景の詞に従ふべし、といはれしとぞ。

秀吉九州を討平げられて後、筑前五十万石を小早川にあたへられしに、隆景、これは吾に過たる事なり。此の頃まで敵なりし身に大国をあたへらるるは、吾を愛するに非ず。九州をなつけん為のかりの謀(はかりごと)よ、と思ひて秀詮(ひであき)に国を譲り、備後の三原に引こもられしとなり。」と。正に深謀遠慮の人ですね。

毛利侯爵家に伝わった元就の手紙には特に「三本の矢」云々とは書いてありませんが、この『常山紀談』あたりから、そういう話ができあがったのかもしれません。

更に『名将言行録』にも、広島城について、「輝元、居城廣島は地形卑くして要害宜しからざれば、山に據りて小高き所に城を築んとて、老臣を集めて評議し、此旨隆景に尋ける。隆景日く、方今の城宜しからず、然れども城郭は国家安危の係る所なれば大事の決断なり、(…と述べて)城を改め築くことを止めさせたり。其後秀吉西国下向の時、此城を見て、此城地形卑く、要害悪しゝ。水攻にせば忽ち落城すべしと言ふ。

輝元之を聞て、隆景を恨みけるに、隆景聞て、要害の悪きが毛利家長久の謀なり。其故は毛利家の国多過ぎ候へば後年に至て秀吉の疑もあるべく、此城要害悪くして、龍城成り難しと、秀吉気遣ひ之なきが即ち当家安全の基なり。(城を予め見た)黒田孝高は秀吉の近臣なれば、要害悪き所を見せ置き、心安く思はれ申さん為めなり。」とあります。

これもまたなかなかの深謀遠慮ですし、正に毛利家は「長久」したわけです。

 ところで戦国時代の毛利家の動きを上記の本から引いてみますと、まず西の方では大内義隆から「隆」の字をもらった龍造寺隆信が、そして、大友宗麟がぶつかっています。利害の対象となるのは、貿易の本拠地・博多です。それを巡って更に、大内を継いだ毛利が大友と争います。その東にはむしろ大友と連携する、一遍は亡びたものの、再びその再興を願っていた尼子勝久、山中幸盛の勢力があります。その様な西日本に対して、これを攻めようとしてくるのが織田信長。間に挟まっているのが宇喜田や荒木など、そして信長に逆らっているのが石山本願寺。この石山本願寺を助けるのが正に小早川隆景の水軍。東では浅井、朝倉、それよりさらに東には武田勝頼が出てきます。このように、特にこの永禄年間の、九州から東日本にかけての紛争は、正に国際的な紛争と同様の、「敵の敵は味方」といった複雑、かつビビッドなものです。

そのような中で、むしろ国際的観念まで持っていたと思われるのが小早川隆景です。そのことは『葉隠』の中に文禄・慶長の役について、「伏見御城に於て、高麗陣御詮議の時分、太閤の御前にて、隆景色絵図をひろげ、『赤い国へは此の道より打入り、白き国を通り候て。』などと御申し候。直茂公其の座に御座なされ、『爰許にて空の御詮議は役に立つまじく。』と思召され、既に、仰上げらるべくと思召され候へども、若し御意にさかひ申す儀もやと、御控へなされ候。さて高麗にて段々御仕寄なされ候に、伏見にての御詮議少しも違ひ申さず、直茂公其の時の御一言御控へ、御仕合せと思召され候と、御話の由。助右衛門殿話しなり。右は前方に、隆景など潜かに渡海候ての事かとなり。」とあることからも知られます。

毛利家は元就以来、九州の地歩を固めたいと願っていましたが、上記のとおり隆景の時代に筑前を秀吉からもらい、さらに肥前の鳥栖及び基山の辺りは、隆景が秀吉からもらったというご縁で後に対馬藩のものになったわけで、現在に至るまでもその足跡を九州に残しています。大宰府天満宮の社殿も隆景が寄進したものです。

 こうしてこれらの本を読んでいくと、隆景は鍋島直茂と十分つり合う深謀遠慮に富んだ本当の戦国武将と言えるのではないかと思うのです。

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