葉隠の諸相 ―鍋島清久と本庄社(その話から鶴岡八幡宮、金沢文庫へ)―
嘉村 孝
葉隠にはこんな話が出てきます。即ち、鍋島直茂のお祖父さんである鍋島清久の話ですが、「鍋島清久夫婦、村の祭禮前に毎夜堀をたたき鮒を追うて廻る…として、
鍋島平右衛門尉清久公、本庄村に御座なされ候。祭礼前方には、毎夜御夫婦様棹を御持ち御出で、終夜堀を御たたき、方々なされ候。祭礼用に、人々堀を干し鮒を捕り候に付、魚逃げ候様にと思召され、右の通り遊ばされ候。その外、御善根御慈悲、限り無く候。兼々彦山御信仰なされ、毎歳年越に御参籠なされ候。或時上宮なされ候ところ、大雪降り道筋相知れず、ほき落ちなされ、谷へ御落ちなされ候。其の辺を御探しなされ候へば、弥陀の三尊御拾ひなされ候。御持帰りなされ、徳善彦山御勧請の御本尊にあそばされ候。彦山の本地弥陀の三尊にて候由。不思議の御事にて候。其の功徳にて御家御繁盛と相見え候由、古老話にて候。」と。
清久は、応仁二年、本庄館(佐賀郡本庄村)に生まれ、天文二一年三月八日八五歳で亡くなった人ですが、慈悲に富み、深く神仏を崇敬し、毎日産土神社本庄社に参拝するなど信仰の事例が多いとされ、殊に彦山を信仰して毎年籠り、三年に一度盛んな彦山祭りを催し、かつて雪中参山参詣の時、崖から落ちて阿弥陀の三尊を拾い、徳善権現の本尊として勧進したとのことです。
清久が、現本庄神社で行なった鮒を逃がしたことは、中世的に言えば「放生」にあたります(鮒の昆布巻きにされないように)。生きとし生けるものを大切にするために、魚を放したり、鳥を放鳥したりというアジア全体にある善行の一つです。これは石清水八幡宮などの八幡宮の放生が有名で、当然鎌倉時代においては鶴岡八幡宮においても行われました。『吾妻鏡』を見ますと、毎月一五日を不成就日として、その日には鶴岡八幡宮の例の二つの池に魚を放すという行事が行われました。ですから、私としてはこの清久の放生の行為は、清久だけではなく、中世全体を貫く一つの大きな行事だと思うのです。
鎌倉時代と言いますと、私がかつて住まいした金沢文庫の傍には六浦という海がありますが、そこは文庫を作った北条実時によって殺生禁断の場所になりました。それだけではなく、その六浦から朝日奈の切通しを通って鎌倉に行く道というのは非常に難儀な道なのですが、牛馬を使って物を運ぶということから、牛馬供養の宝篋印塔が金沢八景のすぐそばにある上行寺(日蓮宗)にもあります。つまり、鎌倉の東側がそのような生き物を大切にする場所だったというわけですが、実は西側も同じで、極楽寺には病人をケアするための薬の鉢などが色々と残っています。また、その極楽寺坂を下りた東側の由比ヶ浜からはたくさんの牛馬の死体が発掘されたりしているようです。その様な場所であらばこそ、その北側には大仏様が安置されているということになるようで、とにかく生きとし生けるものを大切にするという観念は、鎌倉武士から戦国時代の清久の代までつながって来たということでしょう。
このような発想で思い出される江戸時代の徳川綱吉なども、生類憐みの令などを出していますがあくまでも「憐れむ」という立場であり、平等な仏教的立場とは異なります。
一方、清久の方は先に書きましたとおり特に彦山との関係が深く、一三年間彦山に籠って鍋島家が肥前の主になることを願い、その結果肥前の主になれたので、佐賀市の西にある高橋という場所に上記徳善院が営まれています。徳善院はもともと仁和寺の末寺だったようですが、清久によってその一部に彦山が勧請され、南の方にはお寺であっても鳥居があって、山伏の夫婦や僧が住んだ家の跡が残ったりしています。
しかし、明治の廃仏毀釈、神仏分離令によって彦山は神道に、徳善院はお寺にというわけで、本来、山本定朝は徳善院と万部島そして髙伝寺を大切にせよということを『愚見集』の中で言っているのに、今や鍋島家の手も離れ一種こじんまりとしたものになってしまいました。この辺りのあり様を見ていると色々なことを考えさせられます。
