頭山満や宮崎滔天の考えた事そして、二・二六事件(明治憲法にからめ取られた『右翼』)

葉隠の諸相 ―頭山満や宮崎滔天の考えた事そして、二・二六事件(明治憲法にからめ取られた『右翼』)―

 嘉 村 孝

こんな武士道論も面白いかも、というわけで、「頭山満や宮崎滔天」と「ニ・二六事件」、を取り上げてみました。これだけでは、「何の話?」ということになりそうですから、結局「明治憲法にからめ取られた『右翼』」と副題をつけてみました。少々刺激的ですが。実際のところ、この発想は重要ではなかろうかと今にしてみれば思っています。

まず、最初の説き起こしは、『右翼運動百年の軌跡』という本の述べるところです。この本は立花書房からずいぶん昔に出た本で、私も著者にお会いしたような気がしますが(というのは、本名を明かされていない方です)、その本の中で私にとって一番印象的なのは、第二次大戦前は、鴨緑江がどうしたとか黒龍江がどうなったなどという大きなフレーズの歌が多かったのに、近頃の日本の歌は釧路の夜がどうだったとか新潟がどうした位のご当地ソングになってしまい、とかく日本人全体として考えることが小さくなってしまったのは、いわば慨嘆に堪えないというような記述があった事でした。私は、この切り口も極めて大事ではないかと思っています。つまりそうなってしまった理由を探ることが大事なのです。

まず、日本の右翼運動の大きな元として、頭山満さん達の玄洋社は重要です。この玄洋社を構成する人たち、特に安川敬一郎さん(安川電機の源流に位置する人)達は、明治七年の佐賀の乱の時、私の故郷佐賀の三瀬峠を福岡側から攻め登ってきました。しかし、我が故郷のほうが上に位置しますから、朝倉弾蔵率いる佐賀軍のために福岡側が負けてしまって引き返したということが『頭山満翁正伝』などに載っています。その後、頭山さん達は、明治一〇年の西南の役に呼応しようとしましたが、在監中のため参加できなかったり、板垣退助を説いて実力行使に出ようとしましたが止められて自由民権運動に舵を切ったり、明治二五年の選挙干渉に協力したりと色々なことがありましたけれども、話はだんだんと大きくなっていってアジアの解放、特に中国の解放の話になっていきました。

このことについて分かりやすく書いた本として、『頭山満と近代日本』という大川周明の書いたものがあります。その中に彼らの肉声と基本的ポリシーが書いてあり、「頭山翁は『南洲先生が生きておられたならば、日支の提携なんぞは問題じゃない。実にアジアの基礎はびくともしないものになって居たに相違ないと思ふと、一にも二にも欧米依存で暮らしてきた昔が情けない』と長嘆したが、其の大西郷は実に下の如く言っていた――『日本は支那と一緒に仕事をせねばならぬ。それには日本人が日本の着物を着て支那人の前に立っても何にもならぬ。日本の優秀な人間は、どしどし支那に帰化してしまわねばならぬ。そしてそれらの人々によって支那を立派に道義の国に盛り立ててやらなければ、日本と支那とが親善になることは望まれぬ。』大西郷の此の精神を、最も誠実に継承し、また最も熱烈に実行せんとせる者は、実に荒尾精(この人もいずれ取り上げたい)その人である。」というようなわけで、いわば当時、外の民族から制圧されていた中国に対して、これをしっかりさせるためには自分たちも中国人になって、中国の再興をはからなければならないなどという考え方をもっていました。

そんな頭山満と極めて近い関係にあった杉山茂丸(夢野久作の父)にも面白い話があり、例えば、「明治二二年、元玄洋社員来島恒喜が起こした条約改正にからむ大隈重信外相暗殺未遂事件の際、杉山にも嫌疑がかかり裁判所に勾留され、意地悪の検事が『その方よく聞け。この裁判所は他の行政庁と違い、天皇より司法の大権を委任したもうところゆえ、ここで取り扱う法律は明鏡の如きものである。その鏡に写ったその方故、何というても寸芼も仮借することはできぬ』というのに対し、『その明鏡を君の如き根性の曲がった法官が取り扱うから無辜の罪人が幾人もできるのじゃ。君は検事で候というて、言語動作共に傲慢無礼で、総て方角違いのことをいうて人を威嚇するが、一体事実を虚構しても、人を罪に落とせばそれで満足するのか。予は今嫌疑で捕縛された所謂疑問の人であるぞ。それに対して無礼の言語動作は何事であるぞ』と応酬。」更に居丈高な判事に対し、「天皇の名において裁判をする人間がそんなことで良いのか」と一喝(その著書『百魔』 から)。

この人が久作をつれて大宰府・観世音寺に参拝の折、今も陳列されている大黒天を古代の天皇の姿として説明したことは拙著『弁護士の目』に紹介してあります。ついでに『葉隠論考・武士道の諸相』も、よろしければ見てください。

そのような思想、行動傾向の頭山らと、これまた極めて関係が深く、援助も受けたのが宮崎滔天です。彼の三十代までのことを記した『三十三年の夢』は非常に面白い本で、彼が中国(清)の改革派・康有為や革命家・孫文を応援し、特に世界で活動していたために中国では全くと言って良いほど知られていなかった孫文を世に出したという意味で、この本には大きな歴史的意義があります。この本を読んでいると、上記と同様に、「みずから支那人として事に従わんと擬したり」云々とあって、頭山さんと全く同じ発想です。しかし、最終的には恵州の起義に失敗し、滔天は桃中軒雲右衛門に弟子入りして遂には浪花節語り(祭文語り)となり、桃中軒牛右衛門となったというわけです。

このような滔天らを応援した人には、大隈重信や元々彼と極めて近かった犬養毅がいます。大隈は爆弾で片足を失いながらも来島の墓を建てて参拝したとか。つまり、こうした人々は、いわば人間の行動傾向が似ているという意味で同じカテゴリーにくくれると思います。その対極に位置するのが山縣らの長州閥ということになるでしょうか。

ところで、彼らがこのようなアクティブな行動をとったバックないしは基底に何があったのかという事ですが、滔天の述べるところは、「余は侠客を歌わん為に浪花節界に投じたとも言わるるのである。」、「余は日本の武士というものよりも、侠客・男伊達というものに多くの趣味を有していた。」とあるとおり、当時の一般的な武士のイメージではなくて侠客の「義を見てせざる勇なきなり」の発想をもっていたというわけで、ここが極めて大事ではないかと思います。

しかし、こういう考え方は明治時代をもって終わりを告げ、大正から特に昭和になってくるとずいぶん変わってきました。その原因は、明治二二年の大日本帝国憲法という「法治主義」あるいは、もう少し難しい言葉で言うと、法実証主義の時代になると、右翼なり民族主義というものの持っていた、こうした「侠」の発想が矯められてしまった。特に明治憲法は、「国王は悪をなさず(king can do no wrong)」、アジア的に言えば、「君君たらずとも、臣臣たらざるべからず」という『古文孝経』の教えに基づくものともいえ、その責任の名宛人は天皇、天皇の責任の名宛人は皇祖皇宗というわけで、きちんと整序され、武人なり官吏は、それを臣道として厳格に守ることが日本の武士的人間の生き方として法的に規定されたのでした。ですから、昭和七年の五・一五事件において、犬養毅は、いわば「ゆとり」ある「話せばわかる」と述べたのに対し、「問答無用」の扱いになってしまったのだと思います。

さらには、昭和一一年の二・二六事件においては、事を起こした青年将校は、いわゆる皇道派と言われ、仏教(浄土真宗)の門徒であった真崎甚三郎大将らとも親和性を持つ、暖かい心を持つ人々であったにもかかわらず、その行動様式は明治憲法的な統帥権の独立や、君君たらずの発想、つまり、君側の奸を除けば天皇の聖明が一時に現れるという、超純粋的な行動につながったものと思います。

これらを総じて言えば、明治時代の頭山や宮崎らの考え方は、国境を越えた極めて広いものであったにもかかわらず、上記のとおり、明治憲法によって、その基本に日本書紀の神勅が置かれるような方法での法的な整序がなされると共に、「シャープだけれども細い」国家観念ができてしまった。それが、「明治憲法による『右翼』のからめ取り」であり、よその国の為に骨を折るなどということとは全く違うことになってしまったのではないかと私は思うのです。

 

タイトルとURLをコピーしました