伊達政宗と葉隠再説

伊達政宗と葉隠再説 ―葉隠の諸相―              嘉村 孝

戦災で消失する前の仙台城大手門は、名護屋城の遺構であったといわれています。佐賀と仙台もかかわり深いものがあります。
そのかかわりついでに、こんなことが思い出されました。鍋島直茂の話としてのこの言葉が。

「或時、直茂公のおおせに、義理程感深きものはなし。従弟などの死したるには涙を流さぬ事もあるに、故ゆかりもなく、見も知りもせぬ五十年百年も以前の人の上を聞きて、義理なる事には落涙するなりと仰せられ候由。」(葉隠・聞き書き三)。


ところで、伊達政宗の亡くなる前のことを記した命語集には「惣別、人にかはらせたまひて、人はあはれなる事には、大方落涙仕り候が、さやうの事には、さのみ御落涙あそばされず、何にても義理の深き御事には、御聲を立てさせられ、御落涙なされ候。」とあります。

二人とも義理に落涙する人だったのですね。
鍋島直茂の生年は一五三八年、伊達政宗の生年は一五六七年。前者の死亡は一六一八年、後者は一六三六年という具合いで直茂が一世代早いのですが、戦国武将であった両者には相当な共通性があったということでしょう。
常朝の筆になる「愚見集」に、神前で「実の心」起こり候ようにと直茂が祈ったことは、実を重視する戦国武将の重要フレーズとして、私が時々引用するのですが、政宗の命語集にも、「何事によらず実にとすれば、見たる所もよし。」などとあって、ここでも共通性がみられます。
更に、より重要と思われるのが政宗の死に際しての諸事象です。
彼には二十人の殉死者がありますが、その人々が死に臨んで読んだ辞世の歌は、主君政宗を阿弥陀仏に例える葉隠に極めて近いものです。例えば、
「殿は彌陀 光をさそう友なればあとはまよわぬ六道の辻」などなど。

これに対して葉隠では、湛然の言として、「武士たる者は、忠と孝とを片荷にし、勇気と慈悲とを片荷にして、二六時中、肩の割入る程荷うてさへ居れば、侍は立つなり。朝夕の拝礼行往坐臥、『殿様殿様』と唱ふべし。仏名真言に少しも違はざるなり。」です。
主君と家来とが、密接な関係にあったことがここからも知られます。それは、ただ闇雲に主君をお慕いするというのとは違うでしょう。中世らしい、主君と家来との隔たりのない関係。だからこそ自然にたくさんの殉死者が生まれたのです。
こうした様々の事情を総合すると、中世日本全体の国家像も浮かんできます。

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