景観から歴史を考える -蓮池の場合-

 葉隠の諸相

景観から歴史を考える -蓮池の場合-  嘉村 孝

私の手元に昭和五五年三月三日の佐賀市蓮池町の航空写真があります。

それには、河川改修により消失する前の佐賀江の曲がりくねった流れが見事に出ています。

このあたり、昭和31年に佐賀市に合併されましたが、元々神埼郡、つまり神埼荘の南に当たり、橋津、蒲田津などの名に見えるとおり、遠く中国、特に宋との関係深い場所です。そもそも佐賀の     、答があり。クリークがあるとしたのは、中国の杭州と全く同じで     江西省で、ハレギ     この草の実取りまで見たことがあります。平安時代末、平清盛の父、忠盛が宋の船と私貿易をしたのもこのあたりかと思われます。

そして、室町時代の応永年間には常陸から小田一族が下向したといわれ、二つの屈曲の東側がその小曲城といわれていました。更に、近世には鍋島直澄が五万石の蓮池藩を開き、その居城・蓮池城は二つの屈曲の西側です。ここは郭内、つまり城内で、侍の町、その北は町人の町とされましたが、実は、神埼町、城原町の名にみえるとおり、その辺りの住人は、古く漢の劉邦の末裔を称する江上一族の家来でした。葉隠に登場する執行越前守に関係深い、今の神埼から移ってきた人で、本来、勇猛な武士でもありました。しかも町の西端にある祇園社にみられるとおり、京都と同じく商業にも関わったわけで、一概に町人とはいえませんし、むしろ、中世らしい、武士と商人との二面性を持った人々であり、場所であるというべきではないかと思います。

現在のような       相当な  がなされたことと思われ、三支那の内でも最もおそくに成立した   の場合、 と町人という   は相当成功したといえるでしょう。

そして、蓮池藩の二代目・鍋島直之は、葉隠にも慈悲の殿様として登場し、関東でも先にふれた群馬県の尾島・長楽寺に大きな阿弥陀様を寄進していますが、ここ神埼町でも真教寺を取り立て、浄土真宗の寺としています。また、執行一族の墓は現在、江戸時代に長楽寺と住職が兼任されていた佐賀の宝琳院にあります。

などなど考えていると、とめどもなくなりますが、要は、士族だの町人だのといっても、それは近世のもので、日本が世界とかかわっていた中世は、もっと自由な発想でよかったということを考えさせてくれる町、ということができるでしょう。

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