江戸時代における大陸からの人々の渡来とその武士道への影響について

葉隠の諸相 

―江戸時代における大陸からの人々の渡来とその武士道への影響について―

嘉村 孝

 

一六〇〇年代における外国人特に明人の日本への渡来の大きな原因は、一六四四年の明の滅亡ですが、その前に秀吉の文禄・慶長の役もありました。

そのやってきた明人たちの数については、百年後の一七〇〇年ころの長崎の統計では六万人の内の一万人、全国では数万人以上の規模でやってきたことに間違いないでしょう。『外来文化と九州』(福岡ユネスコ協会編集)には、以下のように記されています。孫引きになりますが、忙しいのでそのまま引用させていただくと、「はじめに、九州以外の各地における戦国末から鎖国前の在住唐人の活動の一端を、寛政六年跋の小宮山昌秀『西州投化記』等に拾ってみよう。古くは遣明船の通事の宋素卿こと朱縞・林従傑・閻宗達、奈良西大寺で豊心丹の製造法を伝えた張三官、京一条で饅頭屋を営み虎屋の祖と言われる三官、幼くして倭寇の俘虜となり、のち嵌金等の工芸に秀れた淅人の潘鉄、同様の事情で渡日し京都妙覚寺で写書等にあたった福建興化府出身の陳体経とその父や兄があった。

信長に召出されて安土城の瓦を焼き、その技法が全国に波及したとされる瓦焼一官(一寛)と、江戸芝の「八官町」に屋敷を与えられ町名はその名に因むという子の八官、天正七年(一五七九年)に家康の夫人関口氏を治療したという唐医減慶、また子が上総介忠輝に仕えて妻の姓により花井遠江守と称し松代城二万石を領し、孫は旗本の主水正義雄と名乗った唐人八官もいる。……」と枚挙にいとまなし。これは「九州以外」の話なのであって、同書では、佐賀を除いた博多・臼杵・府内ですら百人を下らず、です。

その中国人(明人)たちがどういう気持ちでやって来たかは、同書引用の『唐通事由来書』に書いてありますが、「私共通事先祖之儀は、明官之者ニ而、清朝創業之折軍議之志願有之、日本之御池罷渡居候処、追々住宅御免、通事役被仰付、其頃専ら切支丹宗門之者稠く御制禁被仰出候へとも、西洋人唐人共之内ニも天主教之輩有之、通商之者へ紛れ罷渡候段被為聞召、唐船渡海御停止被仰出候処、(中略)住宅唐人共篤と相糺合、急度御国法相守候者共通商之儀御願申上候処、唐船請人と申者を御立被置、右邪正御糺方被仰付、通商御免被為遊候義ニ御座候、其後唐船入津之時々、木船罷越、宗門人物等相改、猶又異国之風説承り言上仕候役目ニ被仰付候、且又唐人共不法有之節者、時々罷出制方仕、御法令筋示方行届候(中略)。他邦之舌官者、通詞と相唱候へとも、私共義は右鴻臚館之格を以、通事と相唱へ候様被仰付置候付、唐人共唯今ニ至迄尊敬仕、則通事老爺と相唱来、……信牌大小通事姓氏書戴仕、其外御法令筋唐人相掛候義は、私共を以被仰出候義ニ御座候付、唐国ニも格別重く相心得罷在候得者、私共身分、当地限り之儀ニ無御座、異邦相響候義ニ御座候、(中略)殊更交易之基ひ候身分ニ御座候得は、何卒外地役人と差別御座候訳、乍恐御鑑察之程偏ニ奉願候、(下略)」と。

つまり唐通事は明の遺民とその後裔で、日本古代の鴻臚館、清朝でも鴻臚寺の属官として、たんなる訳官ではないわけで、他のオランダ通詞などとは異なり鴻臚館の格式に則った「通事老爺」として唐人の尊敬をうけている云々というわけ。つまりは旧憲法下の判任官以上ということでしょう。

彼らは、絵を見ると、親の代は中国系の服装をしていますが、子どもの代になると完全に侍の恰好になって名前も「○○衛門」などと改め、日本人になってしまいます。大塚先儒墓地にある佐賀出身の寛政の三博士古賀精里の墓には、その祖先が漢の霊帝とあったりしますが、彼の日本人性を否定する人はいないでしょう。その為、同書でも「同化した」という発想で書かれています。

しかし、私としては、同化ではなくて逆に日本の中にそれらの文化が入り、あるいは徹底的に扶植し、日本自体が新しい日本になったのではないかと思います。つまりは、元からいた日本人も、その新しい文化に目覚めて、自分たちの行動様式を完全に変えたのではないかと考えています。ちょうど戦前の日本がアメリカに占領されることによって、今の日本になったこと以上の深甚なる影響があったのではと。要は影響を与えたのが「アメリカ」だったか「明」だったかというだけの違いです。

こんなことを書くと疑問を持たれる方もいるかもしれませんが、その現象は、今の中国に日本が同化されたというわけではなくて、そもそもその前の明と清とが全く違う国だったということを踏まえなければなりません。明は伝統的中国国家、清は北方ツングース系の国です。それは、北京と南京との違いを見ればわかることですし、ここ数十年前の蔣介石の行動からも見て取れます。ここのところを正確に考えないために、「同化」という表現が出るのでしょう。それどころか、現に実際に、明人の代表者朱舜水と水戸黄門や保科正之らの交流を通じて山崎闇斎系の「神儒一致」の新しい武士道(士道)が出現したこと、こうして、「武士道観」がすっかり変わってしまったことを見なければいけません。

もう一つ例を挙げれば、長崎に来た林公琰の系統です。林公琰の息子は林道栄。その甥は中野撝謙。その系統から、渡辺蒙庵を通じて、賀茂真淵や本居宣長が出てきます。彼らの発想の中には、当時中国において行われていた、清朝考証学の影響が極めて大きく見て取れます。それによって国学、即ち本居宣長の『古事記伝』等が生れました。そして明治維新を経たのち、私に言わせれば、その完成版ともいうべき、明治憲法の基軸に、つまりは明治武士道とも言うべきものの中に、その部分がしっかり使われているというわけです。

ですから、現代にまでつながる巨大な影響を、この渡来人の人々が及ぼしているばかりか、それが幕末においては、宣長の系統にある大国隆正のような、中身が中国であるにも関わらず、日本だ、そして世界一だというような奇妙な発想を持つ人にも繋がっていったということでしょう。

一方、相良享先生が言われたように、地方的で土のにおいのする『葉隠』や山本常朝は、この新規の発想とは真逆に行動したのだと思います。

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