葉隠の諸相
―『日本思想体系』・『三河物語・葉隠』の意味するもの―
嘉村 孝
『三河物語』は大久保彦左衛門によって書かれた徳川家の歴史をその柱とし、家来には「徳川家の為に犬のように忠誠を尽くせ」と記しています。その冒頭には、徳川家の本貫地のことが記されていて、それによりますと、これは全くの作り話とも言われておりますが、要するに徳川家は上州(群馬県)新田の出であり、足利氏と新田氏とが、今で言う栃木・群馬の両方に渡って勢力を持っていたところ、足利尊氏の為に、新田の先祖はその領地を追われ、時宗の僧になって諸国流浪の旅に出て、遂に三河国松平郷に至り、そこで松平氏を称すようになったというのです。
そして、この様に徳川家が、今でいえば、世良田駅の近くにある新田の荘から出てきた、しかも時宗の僧となって諸国流浪した、という経緯ですから、当然、三河物語のバックには仏教があり、殿様は「人馬の安穏にと、中[昼]夜御油断なく、御慈悲ヲあそばし給ふ」つまり慈悲を徹底して家来らを慈しむことが必要で、家来は殿様に対し犬の様になって仕える。と言うようなことが書かれているわけです。
さまざまな議論がありますが、要は慈悲と殿様への忠誠とが対価的な関係にたつ主君と家来との関係です。
そこで、この点は葉隠が「大慈悲を起し、人の為になるべき事」という誓願を四誓願の末尾に加え、慈悲を徹底的に述べていることとも共通性があります。このあたり、より新しいいわゆる士道においては、主君と家来という「別」は、生まれ落ちての当然のものであり、それによる自らの地位に応じた責任を果たせと言っているのとは大いに異なるところです。そこで、そもそもこの徳川家のルーツと言われている世良田・尾島町(太田市の一部)はどういう所なのか、ちょっと見てみたいと思います。
そこには特に鎌倉時代、栄西の弟子栄朝という人によって開かれた長楽寺という寺があります。この寺は現在行ってみますと寺だけでなく東照宮があったり、東毛歴史資料館があったり、近くには満徳寺資料館があったり、極めて中身の濃い場所です。鎌倉時代、この長楽寺で勉強した有名な人に聖一国師円爾がいます。円爾は静岡で生まれて長楽寺で学び、中国浙江省径山に渡って、無準師範の教えを受けて日本に帰りました(無準師範の素晴らしい書は、東京国立博物館や福岡市立博物館にあって、国宝になっています。)。最初に円爾がたどり着いた辺りがどこかというと、長崎・佐賀であって、現在の武雄温泉の奥にある広福寺が円爾の開いた寺です。かつては武雄温泉全体がこの広福寺のものだったという話です。現在も国の重要文化財である、四天王像をはじめ、素晴らしい庭園などがあり第一等の禅寺です。円爾はその後、現在の佐賀市大和町にある万寿寺(カントリークラブで有名な大和不動)を開き、さらに太宰府に崇福寺を開いて、崇福寺は現在、大宰府には法堂跡が残るだけですが、空港近くに移動し、黒田家の菩提寺となり、有名な頭山満さんの墓などもそこにあります。
さらに、博多駅近くにはこれまた有名な承天寺も開きました。博多祇園山笠は承天寺にいた聖一国師が疫病退散のため施餓鬼棚の上から水をまいた事に由来すると言われています。そして、聖一国師はさらに京都に上って東福寺を開き、それが南禅寺に繋がり、現在臨済宗における最大セクトである聖一派を開くということになりました。いかに長楽寺が大事な寺かわかります。そこにある文書も、草深いといわれた関東の高い精神性を示すものと言われます。
このような中世における世良田の風景だったのですが、今度は江戸時代になってから、上記のような徳川家との関係が強く生まれ、満徳寺は千姫にかかわる縁切寺になりました。しかも天海僧正がここにやってきた事から、天台寺院の性格が深まりました。そして、二代将軍秀忠が日光に造った東照宮がこちらに移築され、それと共に長楽寺には日光輪王寺と同じく三仏堂が建てられて、その中には、三体仏が安置されています。その三体仏の中の阿弥陀如来像は葉隠に再三登場する蓮池藩主鍋島直之の寄進になるものです。直之のこれまた慈悲深い行動は葉隠の中にしっかりと書かれており、つまりは、世良田・三河物語・葉隠・鍋島直之等々全部、いわば慈悲でつながると言えると思います。
さらにおまけを言うと、江戸時代においてこの長楽寺の住持であった円儀は佐賀市鬼丸の宝琳院(佐賀の乱で有名な憂国党の本拠、また龍造寺隆信が還俗するまで入っていた寺として有名)の住職を兼ねていたという事もあります。これらについて素人の私はさっぱり分からないので、かつて宝琳院の加藤住職様にその理由等をお伺いしましたが、加藤様もよく分からないうちに御他界なさいました。群馬と佐賀などというと、えらく離れたところどうしのようにも思われますが、以前取り上げた黒瀧山不動寺もそうであるように、鎌倉時代も江戸時代も随分いろいろな繋がりがあり、しかもその行動パーターン・行動様式として似たところがあるものだと、つくづく思われてきます。ちなみにこの世良田から真っ直ぐ南に下りた新田義貞の鎌倉攻めの終点が正に時宗の総本山である藤沢の遊行寺であって、そのような面からもこれらの関係にはまだまだ掘り起こすに足るものがあるのではないかと思われます。
