葉隠の諸相「松浦佐用姫伝説について」
嘉村孝
松浦佐用姫の話について、唐津地方には、「六世紀初めころ、大伴狭手彦は朝廷の命を受け、任那・百済を救援するため軍を率いてこの松浦の地にやってきた。しばらく軍をとどめている間に、土地の長者の娘『佐用姫』と知り合い夫婦の契りを結んだ。やがて狭手彦出船の日、別離の悲しみに耐えかねた佐用姫は鏡山へ駆け登り、身にまとっていた領巾(ひれ)を必死に打ち振るのだった。そして佐用姫は、鏡山を駆け下り栗川(=松浦川)を渡って海沿いに北へ向かって走り、やがて加部島の天童岳の頂きに達したが、遂に舟が見えなくなると、その場にうずくまり、七日七晩泣き続けてとうとう田島神社にある石になってしまった。」というような話が伝わっています。
しかしてその元になった『日本書紀』によると、そこには大伴狭手彦が新羅に行って敵を討ったという話しは数行載っていますが、松浦佐用姫の話は全く出てきません。一方、『肥前風土記』には松浦佐用姫の話が出てきますが、佐用姫は狭手彦が去った後、そっくりの若者に出会い、再び仲良し状態になりますが、結局のところそれは蛇の化身で、鏡山に今もある池で死んでいたという話です。
更に、万葉集には様々な松浦佐用姫にかかわる歌が載っています。
そのような流れですので、「領巾(ひれ)振る山」、「最後は石になった」という話しは鎌倉時代以降だという説も強いようです。
ところで、その石の名前は、「望夫石」と言いますが、その名前の石は田島神社にのみあるわけではありません。
まず大陸を見ると中国中に望夫石があって、香港の南の上川島(フランシスコ・ザビエルが死んだところ)には、夫に相当する離れたところにある石を、子供を背負った妻が望む形の「望夫石」があります。ネットにも写真があります。また、河北省には孟姜女という人が秦の始皇帝に夫を万里長城の建設のためにさらわれ、その夫を追い求める孟姜女が最後は石になったという話しがあります。秦皇島市には、それをテーマにした大きな公園まであります。この話しなどは極めて儒教性が強く、夫との夫婦愛あるいは夫への思慕を極限まで突き詰め石になってしまった形とも言われます。
そうすると、特に儒教が強いと言われている韓国ではどうかと言えば、韓国には夫が大伴狭手彦と全く同じパターンで、日本に行くのでその後を追い求めた女の人がとうとう石になったという、正に松浦作用姫とは真逆の話があるようで、『望夫石』という映画にまでなっています。
これら様々な「望夫石」、あるいは松浦作用姫と同じような話しを紐解き、あるいは関係を考えてみるとなかなか面白いと思いますが、私にはとてもそのような時間はありません。
しかし、佐賀県、特に唐津地方あるいは伊万里地方が(伊万里にも松浦佐用姫の伝説があるそうです)極めて大陸と近い関係にあるということは、こうした話しからも間違いないことだと思います。
『葉隠』の夫婦相和す話を考えるについても、こんな佐賀県のロケーションも踏まえるとよいかもしれません。
そんな次第で、かつての県人会・若楠会主催の郷土訪問では、しっかりと田島神社の「望夫石」を見学し、翌日は更に足を伸ばして、呼子から船で20分程のところにある現在の唐津市加唐島を訪問しました。
この加唐島にある「オビヤの浦」は、『日本書紀』によれば百済の武寧王誕生の地とも言われるところで、後にその武寧王の子孫として仏教を伝えた聖明王が、更に桓武天皇のお母さんである高野新笠が出たとも言われます(『続日本紀』)。
極めて雄大なアジア全体の視点を持てる故郷・佐賀は幸せです。
