葉隠の諸相 佐賀と元寇
嘉村孝
前回は松浦佐用姫を取り上げましたところ、様々に国際的で面白い、というご感想をいただきました。それで、もう一つの国際的な話し、元寇を取り上げてみようと思います。
元は、一二七四年(文永の役)、一二八一年(弘安の役)と2回にわたり日本を攻め、有名な博多湾だけでなく伊万里湾の鷹島にも攻めてきた、というわけですから当然その間の唐津湾つまり東松浦にも攻めてきたと考えるのが当然のような気がします(もっとも、私はこの方面は全くの素人ですが)。例えば、唐津湾の田島神社にも、その目の前の唐津湾から引き揚げられた元軍の碇石が置いてあったりします。これも、若楠会の郷土訪問で以前見たことです。しかも、単に「湾」を攻めた、というだけのことではないようです。
『三瀬村誌』にもひかれている、『脊振村一黒(一谷)番処原古戦場記』によると、
「弘安四年蒙古来寇し、対州・壱州及び松浦の沿海悉く破れ、我が軍は博多に拒ぐ。賊兵は我がすきをうかがい、東松浦より上陸して、山内を越え博多に出んとす。この時山内の豪族水田兵庫守は病に羅り家に在ったが、その手下および山内諸豪の留守兵を率いて、番処ヶ原にて戦い、賊兵三百余人を殺す。敵兵を追って一谷(いちこく)に至り、病のために馬より落ち、敵に討たれて死す。土人その地に祠を建て、一谷神社と称す。番処ヶ原に古塚多し。この戦の戦死者を葬する所と云う。」とあります。
ということは、まずは東松浦、つまり唐津湾に上陸して、ここに言う山内は、旧七山村から昔の唐津往還を通って、北山、三瀬辺りにあたると考えます。
つまり元は、北からだけではなくて、南の佐賀県山間部からも博多の後背地を衝こうとしたのかな、と思われるわけです。大いにあり得る話しですよね。
これを防いだ水田兵庫守は、名前から三瀬村の井手野あたりの人だったのかもしれません。そして、脊振村一谷で戦いがあったようですから、柳瀬、井手野、あるいは平松あたりから、今の中原三瀬線あたりを通って南に下り、一谷まで追い詰めたけれども落馬して討たれたということでしょうか。
この「番所ケ原」については今、脊振村一谷に「番所の原(ばんしょのはる)」という名の田圃があるようです。
こうして唐津、七山、北山、三瀬、脊振で戦ったとして、その先どうなったかというと、例えば、神埼市の飯町に伝わっている尾崎のテテップウなどという名の一種の土笛は捕虜になった元軍の兵隊が伝えたという話もありますから(テテップウなどを復活させた手塚辰夫氏『ふるさと雑記帳』)、山を下って更に神埼あたりにまで逃げていったのかもしれません。あるいは途中で許されて居着いた兵隊もいたかもしれません。これが神埼町の「蒙古屋敷」では。
この辺りはあくまでも「かもしれない」話ですが、佐賀山間部の山の中も元寇に全くの無関係ではなかったのではないかと思います。それどころか、山越えして、南から博多をつこう、と考えた、というのも十分理由のあることでしょう。
また、この元寇で思い出す話として、戦国時代の三瀬の武将神代家の先祖神代良忠は、文永の役の頃、今の福岡県・久留米に住んでいたのですが、そこを流れる筑後川の南から博多側へ、つまり小郡の方向に肥後や薩摩の武士を渡すため、後に神代橋と言われるようになった浮橋を架けたという事績もありました(『北肥戦誌』)。現在は久留米市山川神代の筑後川に、立派な鉄の神代橋が架かっています。
そして、戦いが終わった後、幕府は本来、奮戦した武士に対して恩賞地を与えなければなりませんでしたが、外国を攻めに行って勝ったわけではないので御家人にあげる土地がありませんでした。そこで北条氏は、自分が持っていた神埼荘三三〇〇町歩を小さな「保」ごとに切り分けて、これを恩賞地としたという話が文献にあります。
この辺りは文献上はっきりしないのですが、神埼郡の山中にも、徳川さんや中原さん達、関東武士の苗字の人たちが今もおられますから、その先祖はこの前後に関東からやって来たのかもしれません。
私が生れた三瀬村の家も北側には土塁があったり、北極星を真北に背負っていたり、家の工事をしたときに土の中から埋納銭と言われるお金が出てきたり、今でも後ろの畑をいじっていると古銭が出てきたりします。
そんなものも中世・鎌倉時代の習俗とかかわっているように思え、山間部の村の持つなかなかの奥深さを感じるところです。
