葉隠の諸相 『海東諸国紀』と佐賀の侍たち
嘉村孝
鍋島氏の前の北部九州の主が鎌倉以来の名族少弐氏、つまり別名を武藤という武蔵の藤原氏、即ち源頼朝政権により、横浜辺りから太宰の少弐に補された氏族であったとはたびたび記しました。
それが、特に、室町時代の応仁の乱のころ、大内氏が京都に出払っている間に対馬から博多を回復し、再び太宰の少弐に返り咲いたわけです。しかし、その後応仁の乱が終わると大内氏がまた戻ってきて、少弐政資は一四九七年、多久で自刃に追い込まれました。その子資元も同じく多久で自刃に追い込まれて、その勢力は削がれました。
しかるに、まだまだ鎌倉の任命の効力はしっかり残っていて、少弐冬尚は神埼の勢福寺城、今の城山を根拠地のひとつとし、その北、脊振町の廣瀧辺りはもとより、その先の三瀬村あたりも当然その勢力範囲に入っていたという事です。
そんな「山内」と少弐勢力との関係を北の方から記したものとして私が挙げたいのが、韓国のハングル文字を作った世宗大王の家来である申叔舟が書いた『海東諸国紀』(一五〇一年完成)です。
即ち、同書には、政資の父教頼の事跡として、「丁亥年、教頼又対馬の兵を以て往きて博多・宰府(太宰府)の間、見月(今の水城)の地に至る。・・・秋七月、対馬島主宗貞国兵を挙げ、教頼の子頼忠(政資)を奉じて往く。沿路の諸酋護送して之を助く。遂に宰府に至り悉く旧境を復す(既述の通り)。頼忠既に宰府に至り、貞国をして博多を守らしむ。
貞国は身愁未要時に留まり(み、すみよし[住吉]にとどまり・小二殿所管。博多西南半里に在り。民居三百餘戸。)、麾下を遣わして博多を守らしむ。
(ちょうどそのころ)肥前州千葉殿、其の弟と隙有り。小二(頼忠・政資)其の弟を右(たす)け、貞国に命じて往きて之を攻めしむ。貞国之を難ず。小二強いて之を遣わす。大雪に値い、敗れて還る。対馬島の兵千の凍瘃し死する者多し。」とあります。
つまり、のちの政資、当時の名・頼忠が、東西に分かれて抗争していた小城の千葉氏の内、弟方を助けるよう家来である対馬の宗貞国に命じたところ、貞国はこれを拒否しましたが、強いて行かされ、山越えをしようとして、大雪にあって敗れて帰った、というわけです。「博多西南半里」の住吉のあたり、つまり今の博多駅の西側の住吉神社のあたりから小城を目指したとすれば、博多の別府か荒江あたりから早良街道(二六三号線)、そして三瀬を通ってのルートが最も有力でしょう。つまり、佐賀から北側の海外まで続くルートはこれです。
一方、『海東諸国紀』の中には九州の地図があり、それによると「少弐(二)殿」とか「千葉殿」とか「節度使」とかが出てきます。少弐は既述したとおり本来は太宰府が本拠ですが、上述のとおり脊振山地の南側、神埼、小城、そして佐賀も重要な場所でした。千葉は小城。節度使は、みやき町中原の白虎城を根拠にした足利の探題、渋川です。
これらのさむらいが筑紫山地の南の麓に蟠踞して、どんな動きをしていたのかというと、例えば千葉殿に関して言うと、「己卯年、遣使来朝す。居は小城に有り。北は博多を距たること十五里、民居一千二百餘戸、正兵五百餘あり。書に、肥前州小城千葉介元胤と称す。歳遣一舡を約す。」とあるわけで、要するにこの武士たちは、原則として、博多から何里という筑紫山地の南に彼らの根拠地を置き、何年かにいっぺん、山越え、博多経由で朝鮮貿易をしているという事が書かれているわけです。
そうだとすれば、この佐賀県の北部山間部は、北からにしろ南からにしろ朝鮮貿易の有力なルートという事になり、今の物流と全く同じ話があったというわけでしょう。
どちらかというと、こうした文書類では見放されているような佐賀県の北部山間部ですが、逆に外国の文献を見てみると「どう見てもこれはその辺りの話を書いたものだ」と思われるようなところが種々見られるのも楽しいところです。
『葉隠』にある脊振山境界論争では裁判の相手方であり、正に反対側に立つ福岡の貝原益軒が書いた『筑前国続風土記』にも佐賀県と福岡県との境、背振山のことが詳しく書いてあり、それが遠く韓半島にまで続くことが述べられています。
また、上記少弐教頼が鍋島氏の祖である、という一説もあります。
そんな具合で、佐賀県のみにこだわらず、その周りの文献も読んでみると面白いのではないでしょうか。
