葉隠の諸相 -嬉野不動山のこと― 嘉 村 孝
長崎・オランダ商館に勤務していた医師ケンペルは、一六九一年、九二年と二回にわたり、長崎から江戸へのカピタンの参府に随行しました。その折のことを書いた本が彼の『江戸参府旅行日記』ですが、その中には九州地方の地図が描かれています。
長崎を出たケンペルらは、時津から大村湾を横切って彼杵に着き、そこから山を登って俵坂の番所を過ぎ、現在の嬉野市不動山の近くを通ったようです。更に一行は、塩田を通り、長崎街道を江戸へ向かいました。
この地図には塩田から筑後川河口への海上航路も描かれており、鍋島の支藩である蓮池藩が領地として持っていた嬉野との交流、更にはそこと長崎との交流も偲ぶことができます。ちなみに、だから、中国菓子やポルトガル菓子につながる「一口香」が長崎、塩田、蓮池(佐賀)にあるのだな、と思われてきます。
その地図の、嬉野市の不動山近くに、東洋文庫本では、正に針の先くらいにしか見えないので拡大コピーを使用してみますと、はっきりと「十字架」が描かれています。この辺りは、一六一四年や一六三四年など何回にもわたり、激しいキリシタンへの弾圧が行われたところで、その十字架は、この弾圧を意味すると読めるのです。
このことについて、私の知る限り最も詳しく書かれているのは、戦前に発行された『佐賀県史蹟名勝天然記念物調査報告』ですが、古く『鍋島勝茂公年譜』には、「寛永十一年六月大村俵坂に切支丹宗門起り、嬉野不動山に罷在る大村四郎兵衛と申す侍も此宗にあり。家内に俵坂の四郎右衛門と云ふ伴天連を抱へおきぬ。其段顕然彼相糺ける上四郎兵衛妻子五人火刑が行はれ、四郎右衛門同下人助蔵欠落致す、是に依て大村此方両手一万許にて所々のロを差留められ、彼両人を御探索有り、(中略)然る処に浜崎に於て美作家人相浦市右衛門、彼の四郎右衛門助蔵をからめ取り召連れける道にて四郎右衛門相果る。其の死骸を塩漬にして江戸へ送らる。」と書かれています。
そして、現に不動山に行ってみますと、今や茶どころで、日本最大のお茶の木も有名ですが、キリシタン弾圧の故地があちこちにあります。
どうしてこの辺りにキリシタンがいて、そうした弾圧が行われたのかということですが、上記調査報告や、姉崎正治東京帝国大学教授の書かれた報告書によりますと、要はこの藤津郡や杵島郡が元々キリシタン大名有馬氏の領地であって、一五七三年、龍造寺隆信によって西肥前が平定され、有馬の勢力が島原半島方面に縮小された後も、まだまだキリスト教を信ずる人が多かったということのようです。
弾圧が行われたのは。ここだけではなくて、ケンペルの長崎からの途次でも、大村純忠の死後日蓮宗に改宗した大村氏の領内大村や、北西隣にある波佐見などで激しい弾圧が行われました。
キリシタンの潜伏や宣教師の渡来は、一七〇八年にやってきて、新井白石の『西洋紀聞』などに情報を提供したシドッチに見られるように相当長い間続いたのであり、全国的ともいえる大航海時代の名残があったとも言えるでしょう。一六三九年のいわゆる鎖国以降も多くの宣教師が日本に密かに来朝し、中には、一六一四年の大追放令によってマカオに追放されたペトロ岐部のように、日本人として初めて徒歩でバグダードやローマを旅し、一六三〇年に日本に帰ってきて、最終的には一六三九年に浅草で逮捕、死刑にされたというような人もいました。大村の郡崩れという大弾圧は一六五七年です。
しかして、これらのことと葉隠とがどのようにつながるのか。直接的でないとはいえ、大村純忠が、一五八〇年、龍造寺の圧迫を逃れるため、長崎の知行つまり徴税権をイエズス会に与えたということ。これにより、以後、一貫して長崎は大村の支配からは外れ、秀吉によって公領とされ、更には徳川幕府の時代にも町年寄によって治められるようになり、それが一七〇〇年の長崎喧嘩という、葉隠に取り上げられる喧嘩の元になったという意味は極めて重要です。常朝の言う「上方武士道」と反対の武士道が、この喧嘩の武士の道で、それがよいと常朝は言うのですから尚更です。一方では、これまた葉隠に大きな影響を与え、何か所かに登場する鈴木正三は『破切支丹』などを書き、島原の乱後の島原天草地方での教化活動に励みました。
そして、ケンペルが嬉野に入ったとき、それをもてなした極めて慈悲心に富む蓮池藩主・鍋島直之。彼も葉隠にたびたび登場しますが、直之のおじいさんが上記弾圧をした側の勝茂であることを考えると、そのことと直之の態度、人柄は何か関係があるのかないのか・・・ここまで来ると、ちょっと分かりません。
しかし、いずれにしても押さえておくべき事情かなと思います。
