佐賀の「道」あれこれ

葉隠の諸相  佐賀の「道」あれこれ

嘉村孝

  

 東京佐賀県人会では先日、市川市の日蓮宗・中山法華経寺を訪ねました。

この寺と佐賀県とが深いかかわりを持つことは何回かふれたところです。そこで鎌倉時代、この寺から佐賀へ、どういう道をたどったか、考えてみましょう。

 『成田住還記』を参考にしますと、この市川から東京湾(江戸湾)を船で渡り、今の京浜急行金沢八景に着きます。そして、今の時期であれば、暑さの中をリュックサック(?)を背に鎌倉へと向かうことになります。しばらく行くと、右手に上行寺の門が見えてきます。この寺も日蓮宗。日蓮上陸記念の松とか立派な牛馬供養の宝篋印塔などがあります。もちろん中山法華経寺の末寺で、佐賀まで続く千葉氏の交易ルートの中継点です。

改めて述べますと、一一八〇年、平家追討の旗揚げののち石橋山の戦いに敗れた源頼朝は安房に逃れ、千葉常胤の庇護を受けましたが、そのため鎌倉幕府開府後、千葉一族は幕府において重要な地位を占め、小城・晴気の地頭にも補されたわけです。千葉胤貞以降本格的な九州経営を行う一方、兄方である九州の千葉が千葉に残った兄、弟双方の争いで、兄方の援軍のため千葉にやってきた証拠として、肥前の銘の入った鐘が成田ニュータウンから出土し、現在は佐倉の国立歴史民俗博物館に置いてあります。

こうして、往時千葉一族が通ったであろう朝比奈の切り通しを抜けて鎌倉に入ると、その小町大路には日蓮上人辻説法跡が。通りの中間にある妙隆寺は、足利義教に諫言し、罪として熱い鍋をかぶせられたことで有名な日親さんがいたところで、この人は小城にも来た、という話があります。千葉氏はそのあと東海道を経、守護を務めていた伊賀から鈴鹿峠の東、八風峠から愛知川(えちがわ)の水運を利用して琵琶湖へ出、安土を廻って淀川・神崎川を経て瀬戸内海へと向かったことが考えられます。実はかく言う嘉村のルーツがこの神埼郡にあり、千葉の家来として佐賀に来た、と江戸時代の『神代家伝記』にあるわけです。さらに福岡からは、三瀬峠や長野峠を越えて旧小城郡である富士町の山間部から小城にたどり着いたものと思われます。途中の富士町市川には野中という一族がおられますが、こちらも千葉一族。もう一つ、杉山というところの、実は県人会が大変お世話になっている県庁の中山さんも千葉一族とか。つまりは「中山法華経寺」の根元的関係者では!

こうして、今も残るこのルートは立派な「鎌倉街道」です。

そして街道はそれだけで終わりません。一四七一年に成立した李氏朝鮮の政治家申淑舟の書『海東諸国紀』には「千葉殿」として小城の千葉氏が載っており、「北は博多をへだたること十五里。年に一回の通交を約した」とあります。東国の物産を西に運び、豊かな佐賀平野の農産物をも支配していた千葉氏は、それらの物産を博多への山越えルートなどを利用して交換し、海外貿易をも営んだのです。こうした国際的な中世の武士は千葉氏だけではありません。北条氏も、三浦氏もそうであって、関東からのいわゆる「下り衆」と呼ばれる武士は『葉隠』にも多数登場します。

☆          ☆

一方、吉野ヶ里の北には大和町に至る律令時代の道がありましたが、これは真っすぐで立派な道なのに土に埋もれて残っていません。このような道について五味文彦氏は、それが自然を無視したランニングコストのかかる大道であったこと、それに対して鎌倉街道は自然との折り合いをつけ、集落や都市という人々の生活に即した小さな道であったので今日まで残ったことなどを指摘しておられます(「中世の道」日経·平成十年七月七日など。)つまり鎌倉街道は『葉隠』の鍋島直茂の言葉で言えば「実」(じつ)、つまり「実質」、すなわち道を使用し維持する人々の「身の丈」を大事にしてできた道なのであり、だからこそ今まで生活の道として生き続けてきたのでしょう。

中世は、貿易の多くが私貿易として海外に雄飛した時代でした。そんな時代の道が、大道ではなく無理のないコンパクトな道だった点が面白いと思います。現代はそんな中世の再来ともいうべき混とんとした国際化の時代であり、佐賀県の山の中にも張り巡らされた鎌倉街道は、今、『葉隠』と同じように私どもに実のある生活をすべきことを教えてくれていると思います。

タイトルとURLをコピーしました