徐福と葉隠

葉隠の諸相 ―徐福と葉隠―        嘉 村 孝

徐福は、中国の歴史書・史記によりますと、秦の始皇帝の命により不老不死の薬を求めて、紀元前二一九年、二一〇年と二度に渡ってかの地を出港し、東の海に旅立ち、遂には「平原広沢」の王となり、中国には戻らなかったといいます。

このことについて、『肥前国誌』(森錦洲)では、現に佐賀に来た徐福は紀州に移り、熊野に入った。佐賀に住んだのは徐福の弟徐林だということになっています。徐福とその一族は日本のあちこちに永住したと言い、日本国中に徐福に関する伝承が残されています。そして、始皇帝は紀元前二一〇年くらいの人なので、それから二、三百年経った吉野ケ里遺跡の時代とは少々時代がずれてはいますが、全く無関係ともいえないような徐福関係の色々な事象が佐賀にないではありません。

佐賀市金立町にある徐福長寿館、館長澤野隆様らのお話しによりますと、佐賀というところが、北に脊振山地を、南に有明海を、東には筑後川を、そして西には国道二六三号線を、つまり玄武、朱雀、青竜、白虎のいわゆる四神相応の地であって、徐福らにはぴったりの場所で、しかも、例えば中国の江蘇省・連雲港市をはじめとする東シナ海沿いでは、ムツゴロウが飛び跳ね、むつ掛けをしてこれを捕っていたり、ハンギー(半切)に乗って菱の実取りをしていたり、七面草が広々と生えていたり、それらのみに止まらない佐賀との共通点が多々あることなども徐福らが佐賀に来た(?)理由(いや結果?)かなと思われるとのことです。 

私自身も、例えばその昔の佐賀江の風景と上海から蘇州に向かう運河の風景とは正に同じと言ってもよく、そっくりであることや、山東省の、これも徐福出港の地の伝承がある蓬莱からは、島続きで佐賀まで至れることなどなど、大いに覚えがあります。

 そのような徐福の話が、若干の盛り上がりを見せてくるのが江戸時代の葉隠の時代であるような気がします。というのも、鍋島直茂が金立神社に社殿を寄進したのに続き、葉隠に出てくる川久保邑主鍋島直長(直茂の孫)が徐福をテーマとした絹本淡彩金立神社縁起図を金立神社に奉納しているからです。

 この縁起図、現在は県立博物館にあるようで、私は過日覗いてみましたが、特別展のため見ることができませんでした。

 それで、以前、徐福長寿館で見た写真を元に「思い出し」ますと、この図は、一番上に日月(星も?)が、真ん中には金立神社が、そして一番下に徐福渡来の様子が描かれています。

面白いのは、その船の上には「徐福王子」の旗がはためいていることです。つまり、徐福は王子になったということになりますが、これについては熊野権現との関係が大きいのではなかろうかと思います。

そもそも、熊野権現は、諸説あるものの、インドのマガダ国の王様が千人目の妃との間に子供を得ましたが、残りの九九九人の妃が嫉妬して千人目の妃の首を刎ね、それでも子供つまり王子はしっかり生まれて授乳もされ、成長。しかし、悲観した王は切られた妃の首と王子を連れて日本にまで渡来し、これが熊野三山の謂れとなったとか。つまり「王子」が大事なわけで、それが熊野神社と、東京にもある王子の信仰になっていきました。王子も最初は一人だったのが沢山に増えていったことは熊野への道々にある九十九王子から知られます。

そして、江戸初期、林羅山の「本朝神社考」によりますと、熊野神社について、「秦の始皇、方士徐福をして、童男女数千人を率て海に入って蓬莱神仙を求めしむるに得ず、徐福、誅を畏れて、敢て還らず、遂に此洲に止る。・・・(下って)明の太祖、徐福が事を問ふ。(絶海中津)答ふるに詩を以てす。曰く、熊野峯前徐福が祠、満山の薬草雨余肥えたり、祇今海上波濤穏なり、萬里好風早く帰るべし。太祖和して曰く。熊野峯前血食の祠、松根の琥珀もまた肥えつべし、昔時徐福仙薬を求めて直に如今に至るまで竟に帰らず。」とあります。明に渡った有名なお坊さん絶海中津まで出てきますが、つまりは、熊野神社と徐福との関係が非常に強いということです。

更に、この「神社考」に後れる「牛窪記」即ち徳川家と関係深い三河武士牧野家のことを記した書においては、徐福らが日本に来て、徐市は不尽山、徐明は金峯山、徐林は肥前・金立山に住したなどとあり、三河の金山権現は牛窪の鬼門にあって、これも秦氏の祖神肥前金立山権現の同社なり、とあります。この書は一六〇〇年代末近い頃のもののようですが、ここでも熊野神社と金立山との一体性が記されています。

そのような江戸や三河の情報を前提として、この縁起図が生まれているように思われるのです。つまりこのような縁起図ができたということは、金立神社と鍋島家との直茂以来の縦のつながりとともに、横に三河や関東との広がりを持つ様々な情報によって、このような縁起図が描かれたのではないか。神代家は元々は山内の戦国武士で、残念ながら神代長良以降は鍋島に臣従することになり、鍋島の息子さんが跡を継ぎましたが。しかも、一六〇〇年代も終わり頃になると、教養主義深いものになってきて、こういった情報を取り入れてのこのような縁起図になっていったのかもしれません。

今のところ、以上は全くの推測ですが、こうした傾向が武士の生き方にどのように関わるのか、まだまだどこかに記してある文書があるでしょうから、探してみたいと思っています。

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